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尾瀬の自然保護とその歴史

 
1.「尾瀬の美しさ」

 

 

 

 

 

尾瀬は一般的に長蔵小屋を建てた平野長蔵氏が主役になりがちですが、尾瀬の素晴らしさとその真価を世に知らせ、尾瀬のダム化を防止し、日光国立公園の一部として尾瀬を指定、等に付いては武田久吉博士の存在と努力に負うところが多大である。武田久吉博士が居なければ尾瀬はダム化され、ダムの貯水池になっていたかもしれません。「草加山の会」創立当時の原点と言われる「尾瀬」への想いとして、会員の皆さんに「尾瀬」の歴史を知って頂きたい。武田久吉博士は植物学教授として北海道大学、京都大学の教壇に立ち大正、昭和と活躍しかつ「日本山岳会」会長も歴任した登山家です。植物学の大家であり、理学博士で高山植物の大家です。高山植物に関する著作も大変多い。

大正6年発刊

昭和5年発刊

 

また幕末時代イギリスの公使パークスの通訳として活躍した「アーネスト・サトウ」は武田久吉博士の父である。「サトウ」は高杉晋作や西郷隆盛等に会い、幕末の志士達にも信頼され、のちに東南アジアの大使を歴任し、日本の駐日公使も務めているが、イギリスで「サー」の称号を頂いた、日本の幕末の歴史に残る偉大な外交官である。「サトウ」という名前は日本人の様に感じますが、完全なイギリス人で、武田久吉博士の風貌は正に外国人である。「アーネスト、サトウ」も旅行好きで日本の多くの山々を登っており、明治14年に日本で始めて北アルプスを含めた旅行ガイドブック「日本旅行案内」を発行している。

父・アーネスト、サトウ

久武田吉(左)と兄と妹

アーネスト、サトウの日記tと日本案内ハンドブック

 

 

2.武田久吉博士の生い立ち

イギリスの外交官、「アーネスト、サトウ」を父とし、日本女性「武田兼」を母として、明治16年に武田家の次男として誕生。外交官として世界を飛び回っていたサトウは、家庭に居たことは余り無かった様ですが三人の子供をもうけ、経済的には完全に面倒を見ていてことが、手紙のやり取りなどでも良く判る。久吉は中学時代から植物学に目覚め高山植物に興味を抱き、日光や八ヶ岳などに植物採集登山をしており、日本山岳会の設立会員でもある。明治42年イギリスに父サトウの招きで留学し、ロンドン皇立理工科大学を卒業し、45年には皇立キュー植物園で植物研究をし、本格的に植物学を学ぶ。帰国後は理学博士として日本の旧帝国大学の北海道大学、京都大学などで教壇に立ち、植物学の普及に努めました。

 

3.武田久吉博士の尾瀬と長蔵氏との出会い

日本山岳会の会報「山岳」創刊号(明治39年4月発刊)に   武田久吉は「尾瀬紀行」と題し、尾瀬の素晴らしさと全貌を18ページを費やして報告している。この報告によれば明治38年7月に初めて尾瀬を訪れており、日光から金精峠を越え尾瀬に入り尾瀬ヶ原、尾瀬沼と一巡して、高山植物、景色の素晴らしさを日本で始めて詳細に「山岳」に報告している。時に武田久吉22歳の夏である。

明治39年発刊「山岳」

「山岳」発表の「尾瀬紀行」

尾瀬の主と言われる平野長蔵は明治4年8月生まれで、20歳から尾瀬の開発に努力し、大正4年に現在の場所に長蔵小屋を建て、養魚を始め、山小屋としても開業した。尾瀬を愛し自然保護に努力したが、大正13年に東電の尾瀬のダム化計画が浮上し、山男の自分の力では反対するのは無理と判断し、高名で中央にも交渉力を持つ武田久吉博士を訪ね、尾瀬の保護に協力してくれるよう、再三上京しお願いしている。長蔵氏と武田久吉博士が初めて会ったのは大正13年である。元々植物学者として尾瀬を愛しておられた武田博士は、直ちに長蔵氏と尾瀬に赴き、改めて尾瀬の調査を開始します。以来長蔵氏は武田博士と供に尾瀬の自然保護と開拓に努め、登山者の便にも努めた。日本国内はまだ自然が豊富で、貧しかった昭和初期に自然保護など日本人はまだ考えなかった。自然保護の大切さを学生や政府、役人に説き、尾瀬の保護に尽くされた武田博士は、日本で最も尾瀬を愛した人であると、教え子達から慕われている。

 

4.尾瀬の自然保護活動の経過

武田博士と長蔵氏の努力で、後に近年やっと東電による尾瀬ヶ原のダム化は中止されます。昭和5年に長蔵氏は亡くなっており、事実上は武田博士の働き掛けによる尾瀬の自然保護運動の経過は以下の通りです。(駐日公使だった父を持つ武田博士は、
中央政界や教育界にも知人が多いので国への交渉力は有った)

1) 1934年(昭和9年):日光国立公園の一部として、尾
    瀬が国立公園化される。
2) 1956年(昭和31年):尾瀬を天然記念物に指定する。
3) 1960年(昭和35年):特別天然記念物に指定する。
4) 1995年(平成 7年):東京電力は尾瀬ヶ原のダム化
    による発電所計画を断念。
5) 2007年(平成19年):尾瀬地域と周辺の山々を含め
   単独で尾瀬国立公園となる。
6) 尾瀬ヶ原と云う土地は現在でも東京電力の持ち物で在り、東電は国立公園化された自分の土地を、自然保護の為に木道整備や汚水処理施設など、多くの費用を出費し環境整備に努力しています。近年やっと登山者も自然保護に努力する様になりました。(過っては山にごみを捨てる人が多かった。)

 

5.武田久吉博士の遺骨の行方

或る大新聞に武田博士が記者に「骨を尾瀬に埋めるつもりだ」と語った記事が出た。知人がこの件を武田博士に尋ねたところ、「長蔵が僕の骨の半分は尾瀬に埋めてくれと言ったので、僕は望むところだと約束した。」と言われ、「息子の長英も勿論この消息は知っている。」と云ったという。
長蔵氏は昭和5年に亡くなっているが、武田博士と平野家は、尾瀬を介して相当な親縁関係にあった事は事実である。この為に長蔵氏の子息である平野長英氏は、武田博士が亡くなった折は直ちに駆けつけ通夜にも、火葬場にもお供している。武田博士の直子夫人は博士の御遺志は滞りなく運べるものと何の疑念も無く、親交のあった長蔵氏の尾瀬の墓の脇に遺骨を埋葬できるものと思っていた。ところが三ヶ月ほどして平野長英氏から、反対する者が居るのでという理由で武田博士の埋葬を直子夫人に断ってきた。このため五年間も武田博士の遺骨の半分は行き先を失い夫人の元に留まり、やがて武田家とご縁のあった日光の浄光寺に分骨は納骨された。浄光寺は過って焼失したが、父アーネスト、サトウが建立し寄進した、武田家とは縁の深いお寺です。武田博士は子供の頃毎年一家でこのお寺で過ごされたと言う。武田博士なくしては今の尾瀬はあり得なかった事は平野長英氏を始め、多くの人が知っていたはずである。また尾瀬あってこその平野家であり、武田博士の墓が尾瀬に造られなかったことは、誠に残念なことであり、長英氏や地元の人々の見識を疑わざるをえない。


6.おわりに

武田久吉博士は昭和47年6月、行年89歳でお亡くなりになりました。亡くなられてから既に45年が過ぎ、武田久吉博士を知る人も少なくなり誠に残念です。私が高山植物を勉強しようと思い最初に買った本は、武田久吉博士の著書「原色日本高山植物図鑑」(昭和36年第3版発刊)です。箱入りのしっかりした本なので今でも手元にあります。

武田博士の著作本

武田博士亡き後は、尾瀬と言えば長蔵氏苦心の長蔵小屋が中心となり、息子長英氏を中心に長蔵小屋は繁栄して行くが、吹雪の尾瀬で長英氏は突然息子さんを亡くしてしまう。皆さんも過って報道された新聞テレビでご存知の方も居ると思いますが、長蔵小屋の建て直し時に出た廃棄物を、小屋の下や周囲などに埋めてしまい、国立公園内での廃棄物処理違反として、大きな話題となりました。武田久吉博士の遺骨に対する恩義を忘れた態度、廃棄物処理に見る世間を欺いた行為は、平野長英氏の人格を問われても仕方のない事である。尾瀬の本を書いたり、短歌を発表したりして、いかにも尾瀬を大切にし、愛しているかのごとき印象を世間に与え、その裏ではこの様な裏切り行為が出来る長英氏に対し、小屋で働く従業員が廃棄物処理に対し内部告発をしたのもうなずけます。

 

 

尾瀬の主である平野家としては、本来長蔵氏の尾瀬に賭けた情熱と、それを支えた武田久吉博士の努力を顕彰して後世に伝え、その遺志を継ぎ、尾瀬の自然を大切に守るべき立場であったはずです。それを忘れ小屋の経営、金儲けに走った事が大きな間違いであったと思う。尾瀬という美しい自然の中で、長蔵氏と武田久吉博士が築いた尾瀬を守る美しい友情が、長英氏により傷付けられた事は真に残念です。尾瀬観光では地元の多くの人々が潤っているはずですが、私の見る処では、武田久吉博士の事がほとんど顕彰されていない事は誠に残念であり、情けなく思います。

 

インターネットには尾瀬の自然保護に対して、多くの事が書かれていますが、ほとんど尾瀬の自然保護運動は平野長蔵氏一人が奮闘したかの如く書かれており、良く歴史を調べずに書いています。長蔵氏と長英氏が主役で、政界や財界を動かし、東京電力に圧力を加え、自然保護運動を行えるほど世間は甘くありません。東京電力と云う政界、財界に影響を与える大組織は、山男では太刀打ちできない事は誰でもわかる事です。中央政財界に知人の多かった、武田久吉博士の国への働きかけを最も望んだのは平野長蔵氏です。こうした事実や武田久吉博士の努力をほとんど書いていないインターネットの多くの内容は、山の本や自然保護運動の本を読まず、歴史を良く調査していない、素人の書き物としか思えません。