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『霧の旅会』による低山登山とハイキングの始まり

 
1.はじめに

明治38年に日本山岳会が創立されて以来、日本の山登りは日本アルプスの探検的登山が主流となり、大正時代になると大学の山岳部も台頭してくるが、北アルプスの積雪期が主流となる。これらの登山の大半は地元猟師をガイドに雇い行われた為、大変費用が掛りお金持ちの上流階級の人々の遊びとなっていた。こうした中、大正8年東京に「霧の旅会」が創立され、低山の登山が行われる様になった。又社会人による日本初の町の山岳会でもある。日本における日帰り登山、ハイキングのスタートはこの「霧の旅会」により行われたと考えてもよいと思われる。

 

2.「霧の旅会」とは

霧の旅会の創設者は、当時築地にあった東京府立工芸学校の教師であった、松井幹雄氏であるが、当初の会員は4名でスタートしている。大正8年創立され、昭和19年頃解散していると思われる。この会は1〜2日で登れる低山をバックグランドに登山を絞って活動したが、松井氏が昭和8年若くして亡くなってしまい、その後は会の中心的な人々に引き継がれ継続された。中心的な人物としては、文筆家河田みき氏、理学博士で植物学者の登山家武田久吉氏、詩人尾崎喜八氏、戦前日本を代表する登山家小暮理太郎氏、など早々たるメンバーがおり、全体に会員のレベルは高く、会報「霧の旅」の内容もレベルの高い紀行文、雑文等が掲載されている。日本山岳会と二足の草鞋を履いている会員もいる。松井幹雄氏亡き後、多くの会員に支えられ会報「霧の旅」は発行され続けたが、太平洋戦争たけなわの昭和19年偉大なる登山家、小暮理太郎氏が亡くなり、その追悼号として54号を出したが、中心的人物を失ったことも在り、以後会報「霧の旅」は発行されていない。太平洋戦争も末期に近づき軍部の指導などもあり山など登ってもおられず,山登りの会であった「霧の旅会」も自然解散となり、消滅したものと思われる。こ?して日本登山界の巨星「小暮理太郎」と共に「霧の旅会」も日本の登山界に多くの足跡を残し消滅していった。

 

3.会報「霧の旅」について

会報「霧の旅」は大正8年5月に創刊号が発行され、昭和19年54号をもって廃刊となった。会報「霧の旅」は発刊部数か初期は30冊〜数十冊と少なく最大でも150部程度と言われ、特に1号は4冊、2号は15冊と会員の人数にあわせ製作されていた様なので、世の中に現存する部数がはなはだ少ない。東京の築地辺りの会なので、関東大震災、戦争における東京大空襲などで多くが焼かれてしまったものと思う。会員の要求で初期の号に関しては復刻版を出しているが、復刻版の発行部数も少なく、会報「霧の旅」を入手することは、はなはだ困難である。謄写版刷りの綺麗な読みやすい小さな字で、薄い和紙に刷られたこの冊子はいかにも手作りの会報の良さがあり、活字印刷で写真製版も入った本格的な山岳雑誌である日本山岳会の会報「山岳」とは趣を異にする。昨年私がよく山の古書を買いに行く駒込の中央堂と言う古書店で、4号から初期の26号頃までの会報「霧の旅」ゼロックスコピー(表紙と目次だけの物と4〜10ページのものが大半で完全なものは5冊しかない。)を、未整理の古本の中から探し出した。興味があったので値段を聞くと、松浦さんなのでただでよいとのこと、喜んで持ち帰る。4冊抜け?もあるが参考資料としては良いものと思い保管している。この後1号〜3号、を買い集め、現在完本を12冊持っている。このほか創立者、松井幹雄氏の遺稿集「霧の旅」、会員河田みき氏の「1日2日山の旅」「静かなる山の旅」を持っているが、この他会報「霧の旅」の全号を上田茂春氏が簡単に紹介している「日本山書の会」会報、39号も貴重な資料として利用できる。

 

4.霧の旅会の山登り

上記の資料を基に興味ある内容を拾ってみると以下の様な事が分かる。今回は山登りの内容には触れないことをお断りいたします。

 

4−1.目次よりみた場合

元々会員同士の山の紀行文を見せ合う事が基本にあるので、初期の内容は会員の書いた紀行文により会報が成り立っており、1号から10号辺りまでは平均4件の山岳紀行文が掲載されている。この傾向は余り変化しないが、本編の紀行文に対し、雑文、会報、会員通信などが多くなり会報の厚みは増していく。大正15年4月には17号、18号、19号を合体し「大菩薩連峰特集」として発行され、19編の山岳紀行文や関連文章が掲載されている。この中には小説「大菩薩峠」の著者として著名な中里介山氏が「大菩薩峠に就いて」の一文を寄せている。植物学者で登山家の武田久吉氏は創刊号に、高山植物の焼付け写真を提供しており、その後14号で地名に就いて書いており、以後何回か寄稿している。小暮理太郎氏も大正15年21号において初めて登場し「多摩川沿岸の亀甲山に就いて」を寄稿しているが、以降時々寄稿している。武田久吉氏と小暮理太郎氏は本会の名誉会員として寓されている。

 

4−2.会員「尾崎喜八」氏の山登り

尾崎喜八は山の詩人として戦前戦後に活躍し、特に戦後は山の詩人として大変活躍した。尾崎氏は戦後八ヶ岳の麓、富士見高原に隠遁生活の様な暮らしをして詩作に没頭したが、山の詩を作るに当たっては戦前入会していた「霧の旅」会での活動が元となっていると思われる。会報「霧の旅」の中には、尾崎喜八の詩や文章が8編ほど載っている。尾崎喜八の登場は「霧の旅」昭和5年11月発行35号であるが、初めてフランスの登山家エミール、ジャベルの訳文を書いており、以後36号、37号、41号、42号、54号に詩や文章が掲載されている。54号小暮理太郎追悼号では、「小暮先生」「山を描く小暮先生」の2編を書いており、小暮理太郎氏を尊敬していたことがうかがえる。

 

4−3.会員「河田みき」著作「1日2日、山の旅」(大正12年発行)

この本は会員の活動を纏め、山行報告的内容のガイドブックに纏めたもので、紹介されている山域は奥多摩、奥秩父、大菩薩連峰 道志山塊、丹沢山塊、中央沿線の山、(石老山、百蔵山、岩殿山、熊倉山、三つ峠、その他多くの山が紹介されている。)御坂山塊、八ヶ岳、箱根、上毛三山、など我々が普段登っている多くの山が紹介されている。高山としては、浅間山、木曾駒ケ岳、八ヶ岳がある。中央沿線も初狩駅〜塩山駅から登れる山々も紹介されている。河田みきは大正12年2月発行の8号に「三月頃の蛭が岳」で初めて登場し、以後立て続けに紀行文、表紙絵などを描き大変活躍した中心的な人物である。

 

5.おわりに

以上大正8年から昭和19年までの25年間において「霧の旅」会の会員達が、日本の低山を歩きそして紹介した功績は多大である。山岳史ではとかく大きな山岳や、バリエーションルートに比重が置かれ、こうした低山の登山は記録的に見て興味が無いと捨て去られてしまう。しかし庶民の楽しみとしての大衆登山である、ハイキングや低山登山を日本に根付かせた功績は多大である。大正12年に発行され昭和初期までベストセラーとなった、河田みき氏の「1日2日山の旅」と云う日本初のガイドブックを詩人尾崎喜八氏は「当時私はこの本を山登りのバイブルのように大切にザックの中に入れ、山々を歩いたものである。」と云っている。この言葉が代表するように「霧の旅会」の会員達の低山登山に対する多くの著作活動は大衆への啓蒙に大変大きな役割を果したといえる。今回は会報「霧の旅」を完全に読み込んで書いたわけではないので、山行内容には触れていないが、「霧の旅会」に就いての紹介は出来たものと思う。次回はより深く内容をつかみ山登りに絞り書いてみたい。

 

参考資料

1、会報「霧の旅」1号〜26号、34号、36号、42号、54号。

2、「山書研究39号」日本山書の会:1994年12月発行。

3、「1日2日山の旅」河田みき:大正12年5月発行。

4、「静かなる山の旅」河田みき:昭和2年5月発行。

5、「霧の旅」 松井幹雄:昭和9年10月発行。