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私の最も尊敬するアルピニスト 登山史上の巨人・ワルテル・ボナッティーについて

 
1.はじめに

登山の歴史上、最高のアルピニストを上げろと言われたら、私は躊躇なくイタリアのアルピニスト「ワルテル、ボナッティー」の名を上げる。ボナッティーは現在も75歳で健在である事も素晴らしい。初めてボナッティーの著書を読んだのは26歳頃と思う、岩登りや冬山を本格的に始めた頃で、この時代ヨーロッパの多くのアルピニストの著書が出版されていたが、代表的な著書を上げると以下の様なものがある。

1)「8000mの上と下」へルマン、ブール ヒマラヤの単独登頂記録

2)「アルプス三つの壁」A、ヘックマイヤー アルプス3大北壁登攀記 

3)「無償の征服者」 リオネル、テレイ アルプスの登攀記録

4)「白い蜘蛛」 ハインリッヒ、ハーラー アイガー北壁初登攀記録

5)「星と嵐」 ガストン、レビュファー アルプスの登攀記録

6)「わが山々へ」ワルテル、ボナッティー アルプス、ヒマラヤの記録

この他にも著名なアルピニストの著書はあるが、上記の本が一番多く、雪と岩を目差す登山者に読まれていた。中でも私は「8000mの上と下」と「無償の征服者」が好きであった。8000m峰ナンガパルパットを最終キャンプから単独で登頂した英雄的なヘルマン、ブールと素晴らしい登攀記録の持ち主であり、素晴らしいアルピニズムに裏打ちされたクライマーであるリオネル、テレイは私を大いに興奮させた。

しかし何と言ってもワルテル、ボナッティーの著書「わが山々へ」には、ボナッティーのアルピニズム論と登攀記録の凄さに大変感動させられた。著書「わが山々へ」の本を開くと、目次の前のぺージに以下の文章が書かれている。

「わが山々へ そのきびしい道場から わが青春が学びとった 心のしあわせに対し 限りなき感謝をこめて」

この文章こそボナッティーのアルピニズムの原点であり、エッセンスと言ってよいと思う。此処には純粋に山と自分との対峙しかなく、商業的なマスコミ受けする登山が多くなった現在のアルピニストにない純粋性もある。ボナッティーのアルピニストとしての素晴らしさを、彼の書いた4冊の著書からピックアップして解説してみようと思うが、その素晴らしさの全てを表現する事は中々困難でありますが、此処に皆様に少しでも理解いただけるよう紹介したいと思います。

 

2.おいたち

ワルテル、ボナッティーは1930年(昭和5年)イタリアのベルガモと云う、山に近い町に生まれ、少年時代には敗戦の焦土の中、ガソリンスタンドに英雄と教えられたムッソリーニ一派の死体が吊り下げられていたのを見て、価値観の変化に戸惑った事もあったが、幼い頃より山に行く事を楽しみにし、休暇は叔父さんの家に行き毎日山や谷をさすらい歩く少年であった。中学卒業後は家計を助ける為、直ぐに就職するが第二次世界大戦が終わったばかりで、日本も同様であったが職を見つけるだけでも容易ではなかった。つらい現実に多くの若者と同様に失望し途方にくれていてが、時々行く山が心の慰めとなった。やがて山頂の美しい針の様な稜線に憧れ、岩登りを志し18歳の時初めて故郷の針峰に登り、岩登りに夢中になっていく。そして19歳でアルプス三大北壁の一つであり、技術的に最も困難なグランドジョラス北壁の第六登を果し、本格的にアルピニストの仲間入りをする。

この後ピッツ、バディレ北東壁の第三登を行い、21歳でアルプスの大きな課題となっていた、グラン、カピュサン東壁を登山史上初めて、本格的な人工登攀により多くのオーバーハングを登りきり4日間を費やし初登攀する。この記録は昭和26年の戦後間もない頃で、画期的な登攀のため多くの先輩アルピニストやマスコミから、この若いアルピニストは中傷を受ける。以後ドロミティの難峰チマ、グランデとチマ、オベストの北壁の冬期初登攀を行うなど、数々の困難な登攀記録が認められ23歳の若さで、イタリヤ山岳会の国を挙げての事業、カラコルムのK2峰(世界第2位の高峰8611m)の登山隊員に選ばれ、夜間の専門学校を卒業して得た会計係の職を捨て此れに参加し、以後山に生きることを決心する。

24歳でガイドの免状を与えられ、その後クールマイユールに身を落ち着け、モンブランを中心にガイドや講演会で収入を得て、自らの登攀に喜びを見出す生活が出来るようになる。以後36歳で引退するまで人間の限界と言われた、数々の素晴らしい初登攀を記録する。しかしその記録が時代を先取りした余りに優れた登攀の為、何時も多くのねたみや中傷を受け、登山界に嫌気がさし36歳の若さで本格的な登攀活動は中止し、世界の果てと言われる地域に冒険家として活躍し、その報告活動をするようになり、現在75歳で健在である。(奥様はイタリアの女優ロッサナ、ボデスタさんである事には驚いたが、語学堪能で冒険活動の手助けをしてくれていた。)

 

3.ボナッティーの登攀記録と登攀史上の価値について

ボナッティーはアルピニストとして登攀史の上で価値ある大きな初登攀を何回も行っており、これほど時代に先駆けた多くの初登攀を行ったアルピニストもいない。登攀不可能とされていた岩壁や岩稜を初登攀し、登攀レベルの限界を押し上げて行った。又単独登攀の分野では、本来ザイルパーテーで登攀すべき大きな岩壁を、初めて単独で登攀したアルピニストでもある。ボナッティーの、時代に先駆けた卓越した登攀活動は古い体質の登山界やジャーナリズムから多くのやっかみや、誤解、中傷を受ける事が度々であり、何時もボナッティーの心は傷つき、孤独であった。 ボナッティーが自らの著書の中でセレクトした登攀記録の中で、登攀史上重要と思われるものを以下にセレクトした。

1)1951年(昭和26年) グラン、カピュサン東壁の初登攀

2)1953年(昭和28年) チマ、グランデとチマ、オベスト北壁冬期初登攀

3)1954年(昭和29年) カラコルムK2峰遠征への参加

4)1955年(昭和30年) ドリュ南西岩稜の単独初登攀

5)1958年(昭和33年) カラコルム、カッシャーブルムW峰の初登頂

6)1963年(昭和38年) グランド、ジョラス北壁の冬期初登攀

7)1965年(昭和40年) マッターホルン北壁の冬期単独ダイレクトルート初登攀

ボナッティーには数々の初登攀記録があるが、中でも上記の登攀は大変感動的であり、登攀史上においても、ボナッティー自身においても重要な意味を持つ登攀記録であり、以下に紹介し簡単に解説したい。

3−1.グラン、カピュサン東壁の初登攀(昭和26年)

グラン、カピュサンは有名なモンブラン山群の針峰の1つで、その東壁は500mの垂直な花崗岩の岩塔で、かつ逆層の岩壁の為多くのオーバーハングがあり、此れまで多くのアルピニストがチャレンジしてきたが、オーバーハングの多さにやる気も失せ、かつ技術的にも困難であり登攀不可能と言われていた。21歳のボナッティーは2年で2回の試登を行い、3回目のチャレンジで岩壁の中で3回ビバークし、4日間を費やし初登攀する。その時ボナッティーが使用した登攀用具はハーケン35枚、木のクサビ2個、カラビナ25枚、麻ひものみで作られたアブミ3個、麻の30mザイル2本という、ごく有り触れた物であった。500mに4日間を費やしたという事は、1日125mしか登れない大変困難な岩壁である事が分かる。(アイガー北壁などは1日で400mは登られている。)

この登攀は此れまでアルプスで登られた岩壁では最も困難なもので、アブミによるオーバーハングの乗越という、アクロバティックな人工登攀技術が採用され、本格的な人工登攀時代の幕開けとなった。この後登攀不可能といわれた岩壁がカラビナとザイルの吊り上げ技術とアブミの使用により登攀される様になったのは日本においても同様である。 この登攀に対しフランスの名アルピニスト、ガストン、レビュファーは「現在まで果されたロッククライミング最大の快挙、イタリア山岳会が誇りに思える功績である。」と言っている。

しかしこの素晴らしい登攀もその真価を良く理解できない人々から、この若者にねたみを持って「3日連続ピトンにぶら下がっている様な思慮に欠けた若者達が居る、体操選手の虚しい所業だ、早熟な彼らに不釣合いな企てだ」などと登山専門誌に酷評されたり、多くの誤解も受ける。やはり時代に先駆けた大きな登攀は、その真価は直ぐには理解されず、色々な憶測が飛び交うものである。しかし終戦後の食うや食わずの時代に此れほどまでの情熱をもって大登攀に挑んだ青年ボナッティーは、なんと素晴らしい青年であろう。

 

3−2.ドロミティの岩峰チマ、オベストとチマ、グランデ北壁冬期登攀

冬期の登攀が本格的な大岩壁で行われたのは、1957年(昭和32年)ルネ、ドメゾンによるドリュウ西壁であり、この壁は1000mの高度がある垂直な岩壁である。この後1961年〜63年までにアルプス三大北壁であるアイガー北壁、マッターホルン北壁、グランドジョラス北壁の冬期初登攀が行われ本格的な冬期の登攀時代となる。此れに先立つ事8年前の1953年(昭和28年)イタリアのドロミティ山塊で最悪な北壁と言われた、チマ、オベストとチマ、グランデの冬期登攀をボナッティーは行っている。パートナーと二人で150kgに及ぶ装備と食料を雪の中小屋まで運び上げ、2つの北壁をアタックしている。特にチマ、オベストの北壁はドロミティで最後まで残った難攻不落の岩壁で、1935年にイタリア最高のクライマー、リカルト、カシンが初登攀して以来18年間冬期には登られておらず、500mの高度があり下部は全体にオーバーハングし、上部は垂直な石灰岩の岩壁で夏期でも最悪な岩壁と言われていた。チマ、グランデはすでに冬期に登られており、第二登攀となる。登山界がまだ夏の登攀に力を入れていた時代に、本格的な岩壁の北壁を冬期にチャレンジしたボナッティーの先見性を評価したい。

 

3−3.カラコルムK2峰(8611m)遠征隊への参加と、8000m峰の単独登攀計画

ボナッティーは24歳とまだ若く、山頂アタック隊員には選ばれなかったが、最終アタックテントへの荷揚げを任され、苦労の末荷揚げは行うが、下のサポートテントまで下山できず世界で初めて8100mの高所でのビバークを余儀なくされる。この体験はボナッティーに高度順応と寒さに対し自信を付けさせ、翌年登攀不可能といわれていたドリュウの南西岩稜を6日間かけて単独登攀し、益々クライミングに自信を得たボナッティーは驚くべき計画を立てる。 それはカラコルムのK2峰8611mを単独、無酸素アルペンスタイルで登頂する計画である。資金を集める為八方手を尽くすが、この計画が余りに当時としては突拍子も無い物で、誰もこの計画に乗る人はなく、計画は潰えてしまう。20年後にラインホルト、メスナーがこうした計画を実行し成功するが、ボナッティーには是非やって貰いたかった計画である。失敗してもアルパインスタイルでの8000m峰の登攀のチャンスが見出せれば、この後のヒマラヤ登山史は大きく変わった事であろう。この年日本は大量の物資と人間を投入し、極地法で初めての8000m峰マナスルの初登頂に成功した時代であり、単独でヒマラヤの8000m峰を登るなどという事は誰も考えても見なかった。ボナッティーの登攀に対する自信と考えが、如何に進んでいたか、又正しかったかが判る良い例である。

 

3−4.ドリュの南西柱状岩稜の初登攀

この登攀は1955年(昭和30年)に行われたが、余りに困難なルートの為に登攀不可能と思われていた。ボナッティーは1000mに及ぶ垂直なこの岩稜をたった一人で6日間登り続け、登攀不可能と言われていたこの困難なルートを初登攀したが、この登攀は現在まで行われたロッククライミングでは最も勇気を必要とする困難な究極の登攀と言われている。現在でもこのルートはアルプスで最も困難なルートの一つとなっている。ドリュの西壁は既にフランスのキド、マニヨーヌパーティーにより埋込みボルトの使用と云う今までにない登攀用具を使用し初登攀されたが、ルートが余りに壁の左に片寄り中心からはずれていた。中央の真直ぐ山頂に突き上げる高さ1000mに及ぶ垂直な南西柱状岩稜は登攀の困難性を考え、登攀不可能と考えられていた。アルピニスト達が何回かチャレンジした形跡はあったがその記録は無く、おそらく満足なチャレンジも出来ないまま下山したものと思われる。ボナッティーもパートナーと組んでチャレンジもしたが、完登する事は出来なかった。そして4回目のチャレンジは単独で登る事を決意し、チャレンジする。単独で登るということは、滑落した場合に止めてくれるのは装備、食料の入ったザックであるが、この登攀の為に5日分の食料と装備をいれた30kKgに及ぶザックを登攀中に引き上げなければ為らなかった。

単独登攀の場合一度登った岩場を下降しカラビナ、ハーケン等を回収し、再び登り返してから重いザックを引き上げる作業があり、もしザックが岩場にでも引っ掛ると再び下降しザックを滑りやすい位置に置き、三度登り返す、大変な苦労と時間を必要とする。垂直でオーバーハングの多いこの困難なクライミングの最中ボナッティーは一人でいつもこんな事を考えていた「数日前から可能の限界で格闘しているのは、僕自身の心の悩みを解決する為だという自覚だった。自分自身と人生に心の安らぎを得る為に進んでドリュを選び、その高みにしがみついたからには、闘志を失い、死に身をゆだねる事は出来ない。」登攀という物を自己認識と考え表現した始めてのアルピニストであろう。この後アルピニズムと云うものが〈自己認識と自己表現のための手段〉として定着していく重要な表現である。このアルプス最大の課題と言われたドリュの南西柱状岩稜を単独登攀した事が単独登攀のレベルを押し上げ、この後単独登攀が新しい登攀手法として定着した、歴史的な登攀であったと言う事は言うまでもない。

 

3−5.カラコルム、ガッシャーブルムW峰の初登頂 (昭和33年)

ガッシャーブルムW峰は7980mの高度があり、8000mに手が届かんとする岩峰である。バルトロ氷河から撮った写真で見る限りでは山全体が黒く、雪がほとんど付着していない急峻な岩峰である。カラコルムやヒマラヤの高峰では雪の付着が多いので緩い雪壁や雪田をルートとして登るのが一般的で、本格的な岩稜や岩壁を高所で登る事はこの当時の初登頂では無く、ハーケンを打ちルート開拓するのは、10年以上経ちヒマラヤやカラコルムでバリエーションルートの開拓が行われてからである。このために当時ガッシャーブルムW峰は登攀不可能ではないかと言われていた。7980mはほぼ8000mの高峰であり、当時の重い酸素ボンべなど背負って岩登りなど出来ないからである。7550mの最終キャンプから上はハーケンとザイルが必要な雪と岩の鋭い稜線が続き400mの高度を登攀しなくてはならず、ボナッティーとパートナーは無酸素にてアタックを行い、最後にはセカンドがハーケンを回収しながらのクライミングとなる。

しかし困難なロッククライミングを8000m近くの酸素の薄いところで行う事は大変な事であり、また最後の山頂への登攀は素手で行っており、今だ素手で8000m近くのヒマラヤの登攀を行った記録は読んだことがなく、2人は無酸素で4回目のアタックでやっと山頂に立った。後年8000m峰の無酸素登攀が流行になったが、この登攀は8000mの高峰でのロッククライミングの可能性と、無酸素登山の可能性を押し広げ、ヒマラヤにおけるバリエーションルートの開拓に道をつけた素晴らしい歴史的な初登頂である。

 

3−6.グランド、ジョラス北壁冬期初登攀(昭和38年)

アルプス三大北壁であるアイガー北壁が1961年に、マッターホルン北壁は1962年に冬期初登攀され、残るはグランド、ジョラス北壁のみとなった。最も困難な北壁と言われるグランド、ジョラス北壁はアルピニスト達に数々の挑戦を受けていたが初登攀されることはなかった。1962年にはヒマラヤスタイルの壁に前進キャンプを設け、固定ザイルを張るという方法が4人のパーテーで実施されたが、失敗に終わった。ここ数年北壁の初登攀競争が盛んで、競争嫌いなボナッティーは此れに参加しなかった。しかし最も困難なグランドジョラス北壁のみが残り、力のないアルピニストには手が出せないので幾分競争も静まった1963年1月25日にボナッティーは、この最も困難な北壁、グランドジョラスの登攀を開始する。パートナーと二人で古典的な登攀方法での初登攀を目差したが、岩壁の中で嵐に遭遇し2日間足止めくい、7日間を費やし初登攀する。身を横たえる所も無い小さな岩棚に腰掛けツエルトにくるまり、マイナス20度C〜マイナス40度Cの厳冬の岩壁に長い夜を過ごす事は絶えられない事である。この辛いビバークを6回も岩壁の中で行う。こうした大登攀には並外れた体力と精神力が必要だ、毎?酷寒の中で行う登攀は死と隣り合わせの厳しいものだ。こうしてアルプス最大の課題、冬期グランドジョラスの北壁はボナッティーにより完登され冬期登攀も新しい時代に入る。

 

3−7.マッターホルン北壁の冬期単独ダイレクトルートの初登攀

1965年はマッターホルン登頂百年祭が行われた。すでに登山界に嫌気がさし、大きな登攀はもうやらない事をボナッティーは決意していたが、突然マッターホルン北壁にダイレクトルートを開拓する事で、ボナッティーは自分なりに百年祭を祝う事を思い立つ。絢爛豪華なマッターホルンは3つの稜と3つの壁は全て登りつくされていたが、1928年に二人のアルピニストが北壁を一直線にダイレクトに登る事を試み失敗したが、今回このダイレクトルートを開拓する事を思い付いた訳である。友人3人パーテーでルートに取り付くが、3日目に嵐に遭遇しビバークザックも引きちぎられ、400mの懸垂下降を強いられてやっとの事で下山する。早速新聞は「ボナッティー失敗」と書きたてる。百年祭に合わせた新ルートの開拓は大いに話題になってしまい、「ボナッティーの失敗したルート」はジャーナリズムの宣伝が功を奏し、野心に燃える多くのクライマーが各地から集まった事を新聞は報じていた。その後2人の友人もボナッティーの誘いに応じる事が出来ず、結局ボナッティーはマッターホルン北壁ダイレクトルートの開拓を単独で行う事を決意する。

1965年(昭和40年)2月18日、ボナッティーはこの歴史的な登攀に出発する。北壁の基部まで友人に見送られ、あとは一人になり北壁の新ルート取り付き点でビバークする。冬期に単独でしかもダイレクトルートを新しく開拓しようと云う試みは、当時の登攀レベルから考えると思いも付かない突拍子もない計画であり、ボナッティーはビバーク中に〈あきらめるべきか否か〉大いに悩む。しかしボナッティーは翌朝ビバークザックから出て、覚悟を決めると自分との戦いの一歩を北壁に印す。厳しい1日が過ぎ2回目のビバークに入るが、強い風に煽られ雪を溶かし飲み物も作る事が出来ず、止む無くビバークザックをかぶる。こうして厳冬期の北壁で3回のビバークを行い、何回か初登頂者ウィンパーの百年前の大悲劇、4人のガイドの墜落を思い、早くこの岩壁から抜け出たく思う。厳冬の北壁をほとんど素手で登るという4日間の死闘で、手は血に染まりボナッティーはマッターホルンの山頂に立ち、北壁ダイレクトルートを単独で初登攀する。この登攀はボナッティーの先鋭的登山の最後となり、翌年わずか36歳で本格的登山から引退する。

しかしこのアルプス三大北壁の一つを厳冬期に、しかも単独で、ダイレクトルート初登攀と言う「三つの超人的な記録」として、又未だかってない大胆不敵な登攀として、全世界で報じられその反響は大きく、また高い評価を得た。このためにイタリア大統領は「全世界の人々を心から感動させ、祖国の誇りともなった、抒情詩に残る登攀」として、一般市民の功績に対し与えられる金メタルをボナッティーに与える。この金メタル授与もいつものようにボナッティーの余りに時代を先取りした登攀に対し理解する人、しない人で賛否両論がジャーナリズムで繰り広げられる。

 

4.ワルテル、ボナッティーのアルピニズム論

アルピニズム論と云うといかにも難しく聞こえるが、山に登る姿勢や考え方であり、余り難しく考える必要はない。ボナッティーは初め山に心の慰みを求めたが、やがて自分の人間としての成長が、山に鍛えられた事により得られた事に気付く。ボナッティーは登山に対し次のように言っています。「山に登ると言う事は、人間が己を知り、自分らしく生きるためにある、沢山の方法の一つにほかなりません。山に登ると言う事は、何かを求めていくのであって、絶対に何かから逃れる為ではないのです。登山者は自然の様々な事物と出会って心を豊かにする事が出来ます。登山者は広大な自然の中で責任を持って行動し、様々な経験をつんだ人間です。ですからアルピニズムは、単なるテクニックとかピークハントとかいった事以上のものなのです。ただ闇雲に山に兆戦すればいい、と言う物ではありません。物事をじっくり考える事、そして色々な事を知ろうとする意志こそが、山を感じ取り、理解し、そして行動に備える為には、ずっと重要な事なのです。」ボナッティーは時代の最先端を行くアルピニストでした、しかしその考え方はいたって古典的で人間らしく、大変共感できる点が多いのです。勿論ボナッティーには先鋭的?アルピニストとしての登攀に対する考え方、ルールといったものもアルピニズム論の中には書き残していますが、我々には高度すぎますので省きました。

 

5.おわりに

以上でワルテル、ボナッティーのアルピニストとしての紹介を終わりますが、36歳で先鋭的なアルピニストとしては引退しましたが、勿論ガイドとして、楽しみとしてその後も山には登っています。しかし次の人生は冒険家として、世界の未開の地を歩きレポートし、雑誌の記事にしたりして活躍しました。数々の冒険は1984年「ワルテル、ボナッティー・わが冒険」として出版された。アマゾン、アフリカ、南極、パタゴニア、その他多くの地の果てを探検し、南極では4000mの山に登っている。 ボナッティーは山に対し、神聖な自分を鍛えてくれる場所として敬い感謝している。日本の修験道の行者は霊山を敬い、山に入り厳しい修行を積み、己を自然の中に没入させる事で悟りを開くという。ボナッティーも正に嶮しい大自然としての山岳の岩と雪に鍛えられ、己を悟った修験道者の様に思えてならない。 最後に1965年ボナッティーが書いた「さらば、アルピニズム」の最後に書かれている言葉を紹介しワルテル、ボナッティーの紹介を終わります。

「モン、ブランは、ぼくにとっていわば親父のような存在で、多くのことを学ばせてもらった。時には叱られたこともあったが、厳しすぎるということは一度もなかった。いつだってぼくは、日ごろ離れて暮らしている父を久方ぶりに訪ねるような気持ちで、モン、ブランの谷間に、そしてその稜線に帰ってくる。そうして、昔の言葉で語り合い、子供にとってはかけがえのない優しさと思い出に再会するのだ。」

 

参考資料

1、「わが山々へ」 ワルテル、ボナッティー 1966年5月

2、「大いなる山の日々」 ワルテル、ボナッティー 1974年8月

3、「わが冒険」 ワルテル、ボナッティー 1986年3月

4、「わが生涯の山々」 ワルテル、ボナッティー 2003年4月

5、「素手の山」 ルネ、デメゾン 1972年6月