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甦る天才クライマー小川登喜男

 
1.はじめに

昭和の初めに現在でも素晴らしいルートとして、多くのクライマーが登攀している岩場を初登攀したクライマーがいた。その人の名は小川登喜男、昭和6年東北帝国大学心理学科卒業後、同大学の医学部精神科に進み、途中で東京帝国大学法科に転じ卒業するという大変なエリートである。このエリートが大学時代に東北帝大では東北の多くの積雪期の冬山を登り、やがて東北帝大、東京帝大在学中に谷川岳の一ノ倉沢、幽ノ沢、穂高、剣岳、 等で多くの初登攀をするクライマーに成長して行く。小川登喜男は山で亡くなる事が無かったので、伝説的な登山家とはならなかった。しかし昭和初期に多くの困難な素晴らしいルートを初登攀した天才的なクライマーであり、戦前ではナンバーワンのクライマーである事は誰でも異存はない筈である。しかし日本の登山史にはほとんど出てこない、これは日本山岳会に属さないで東北帝大、東京帝大山岳部を歩んだ人に対し、光を当てない日本の主流と言われる登山界(日本山岳会、慶応大学山岳部、早稲田大学山岳部、等)に違和感を感じる。私も小川登喜男に関する素晴らしい記録は前から知っていたが、その実像は良く分からなかった。しかし昨年「銀嶺に向かって歌え」甦る天才クライマー、と銘打った伝記が発刊された。神田の古書会館でこの本を見つけた時は、少なからず興奮した。この本を元にして今回この天才クライマーの事を書いてみます。 下記に小川登喜男が初登攀した代表的なルートを示します。

 

2.小川登喜男の初登攀ルート

昭和5年 7月17日:谷川岳一ノ倉沢奥壁第三ルンゼ初登攀

昭和6年 7月 :谷川岳幽ノ沢左俣第二ルンゼ初登攀

昭和6年 7月27日:谷川岳幽ノ沢右俣リンネ初登攀

昭和6年 8月14〜15日:穂高岳の屏風岩第二ルンゼ初登攀

昭和6年 8月21日:穂高岳の屏風岩第一ルンゼ初登攀

昭和6年10月18日:谷川岳一ノ倉沢第四ルンゼ初登攀

昭和7年 1月 5日:奥穂高岳岳沢コブ尾根積雪期初登攀

昭和7年 2月13日~14日:谷川岳一ノ倉沢一ノ沢より東尾根積雪期初登攀

昭和7年 4月 9日:剣岳源次郎尾根積雪期初登攀

昭和7年 7月31日:穂高連峰明神岳五峰東壁中央リンネ、中央リッペ初登攀

昭和8年 9月22日〜23日:谷川岳一ノ倉沢衝立岩中央陵初登攀

昭和8年10月28日:谷川岳一ノ倉沢烏帽子岩南陵初登攀

これ等の初登攀が鉄の鋲靴の登山靴で行われた事と、ほとんどハーケンを打たずに登られたと言う驚異的な登攀であった事を考えなくては為らない。現在のクライマーが登りやすいゴムの登攀靴をはき、岩に打たれた多くのハーケンの支点に守られて登っている事を考えると、その勇気と登攀技術に対する実力の違いが明確に分る。この他にも多くのルートを初登攀しているが、此処に上げた初登攀ルートは現在でも中々困難なルートや素晴らしいバリエーションルートとして多くのクライマーが登っており、現在でも通用する立派なルートである。登攀ルートのガイドブックには必ず紹介されるルートである。昭和30年代後半に日本の岩場もヨーロッパアルプスに習い、困難度でグレードが付けられるようになった。3級(初級)4級(困難)5級(大変困難)6級(極度に困難、人工登攀含む)の様にグレードが付けられたが、上記初登攀ルートには後年4級(困難)と認定されたルートがほとんどであり、この時代に4級ルートの登攀をしたのは小川登喜男ただ1人である。

 

3.小川登喜男の生い立ち

明治40年に浅草の浅草寺の仲店の近くで生まれた小川登喜男は、子供の頃から三社祭を我が町の祭りとして育った生粋に浅草っ子である。小川登喜男は官立の7年生の旧制東京高等学校(尋常科4年、高等科3年)と言うエリート学校を卒業して東北帝国大学に進むが、後に東京帝国大学(現東大)の法科に入り卒業すると言う大変なエリートであり、文武両道の人であった。 小川の初めての山は16歳の時に登った高尾山から小仏峠の縦走であった。17歳で戸隠山を登り、19歳で東京高等学校山岳部として槍ヶ岳に登り、その後単独で槍ヶ岳からキレットを通過し穂高岳まで縦走している。大正時代の槍穂縦走は中々困難なルートであったが、此れを単独で縦走した小川登喜男は、岩登りに対していかに小川登喜男東北帝大時代天賦の才があったかが分る。この後東京高等学校時代には三つ峠でクライミングの練習をしたり、上高地に天幕を張り大学山岳部並みに穂高の山々を登っていた。

4.東北帝国大学山岳部に入部する

昭和3年に小川登喜男は東京高等学校を卒業し、仙台の東北帝国大学に入学し山 岳部に入部する。この年に東北帝大では山岳部の部室が作られ、小川以下7人の 新入部員が入り山岳部も活気に満ちてくる。5月には早池峰山を登っているが、 当時は藪漕ぎがひどく、途中で道を失いビバクークし翌日下山している。7月に は夏山合宿が行われ小川は上高地の合宿に参加し、当時としては困難な登攀であ る槍ヶ岳の小槍に登っている。また涸沢から前穂高北尾根を登り明神岳へ縦走し、 上高地に下山している。この2つの登攀は当時としては中々困難なものであり、 小川の実力が証明され山岳部では一目置かれる存在になった。部室には大学ノー トが備えてあり、ルーム日誌として部員の山行や考え方が書かれ、このルーム日 誌が小川の山登りや、考え方を知る上で後に大変参考になっている。山岳部の岩 トレは福島県北部にある霊山という奇岩怪石の山で行われた。仙台から比較的近 いこの岩山が東北帝大山岳部の岩トレのゲレンデとして使用されたが、仙台の鎌 倉山の岩場もゲレンデとして使用された。霊山の岩場は壁もあり、小川は此れを 大胆にトップで登り、部員達にその才能を予感させる。

 

5.昭和3年暮れから4年の北海道冬山合宿と冬山

大学1年の冬山は北海道合宿で始まり、ニセコアンヌプリの裾の宮川温泉をベースにし、連日の吹雪の中チセヌプリ、ニセコアンヌプリ、などを登る。この後に小川は先輩と4人で十勝岳を目差し旭川から富良野へ移動し、1月5日にまたも吹雪の中を十勝岳の山頂に立つ。写真を見ると上着はジャケットだけで足はゲートルを巻いているだけの粗末な装備である事に驚く。富良野岳も狙ったが時間が掛かりすぎ敗退する。これ等はいずれもスキー登山で最後はアイゼンを使用している。この年の冬山では東北の山々にも足跡を残すが、満足な結果は出せなかった。冬山2年目は手始めに吾妻連峰縦断に3日間を費やし、100Kmの距離をスキーで走破する。この後仙台から30Km離れた奥羽山脈の舟形山を厳冬期として始めて登る。2日間で60Kmをスキーで登り降りし厳冬期の舟形山に登ったその行動力は大変な物である。この7年後の3月 十勝岳山頂にて8日に警察署、営林署、スキー愛好家などの有志が積雪期の舟形山を登った事に対し河北新報に「舟形山征服記」として発表したほど、7年前の東北帝大の小川達の登山は大変な記録であった。この後に小川は理解ある先輩に恵まれ岩場に冬山に活躍し、実力を付けて行く。山岳部としても蔵王に蔵王ヒュッテの建設をし、これをベースに蔵王や周辺の雪山で、スキーやスキー登山に活躍する。

 

6.谷川岳「一ノ倉沢第3ルンゼ」を日本登山史に残る初登攀をする

谷川岳は大島亮吉(慶応大学山岳部)が昭和2年3月に谷川岳を積雪期初登頂して以降、この山を探索し一ノ倉沢を含む東面の大岩壁を見つけ、山岳誌に発表する。昭和5年に清水トンネルが開通し、谷川岳は交通の便の良い山となっていく。 この年に3月マチガ沢、5月に早稲田,法政大が入るが6月に一ノ倉沢二の沢上部で法政部員が滑落初の遭難となる。7月に青学高校が一ノ倉沢二の沢を雪渓を利用し登り、東尾根に出て一ノ倉沢から国境陵線オキの耳の頂に初めて立つ。しかしこれ等はいずれも一の倉沢の入り口であり、核心部からは外れ、核心部である滝沢、正面奥壁、4~5ルンゼ、烏帽子沢奥壁、衝立岩からは離れていた。しかしここに東北帝大の小川登喜男パーテーが現れ昭和5年7月17日に一ノ倉沢出合のテント場を朝6時に出発し、一気に一ノ倉沢の核心部である正面奥壁第3ルンゼを登攀し、国境稜線に立ちトマの耳山頂付近でビバークし、翌日下山する。此れが一ノ倉沢の核心部の真の初登攀とされ、今日登山史に記録されている。この登攀ルートは現在でも岩登りグレードで4級(困難なルート)であり、日本で初めて登られた4級ルートでもある。小川登喜男はこのルートをトップで登り、1本もハーケンを打たず、鋲靴で登っており、これは驚異的な登攀技術と度胸である。私も4級~5級ルートの岩壁を登っているが、さすがに難しい所は5mおきぐらいにハーケンが無いと怖いと感じた。

 

7.大学最後の冬山「八幡平〜八甲田〜青森湾150Km縦走」

大学最後の冬合宿が終わったあと、小川は親友である田名部以下4名の部員は合宿場所である八幡平の麓より八幡平〜十和田湖〜八甲田山〜青森湾までスキーで縦走する事とする。この冬山の縦走は山の高度こそ無いが、東北北端の豪雪地帯であり、スキーで新雪の深い雪の中を進まなくては為らず、大変な苦労をともなったであろう、中間で1人リタイヤしている。八甲田では山頂には立つが、猛吹雪で山越えが出来ず、酸ヶ湯からは裾を巻いて青森までスキーで降っている。また雪深く降雪が多く、ルートは地図を見なが方向を決め進まなければ為らず、読図力は大変優れていた。豪雪地帯を7日間で150Kmを縦走したこの山行は地味ではあるが中々出来ない山登りである。この後小川は昭和6年東北帝大の医学部に進むが、この後想い出多い仙台を離れ、東京に戻り東京帝大(東大)の法科に入学し、再び登山を始める。

 

8.東京帝大での山登り

東京帝大に入った小川は山岳部の部室に出入りし、積極的に友人を作って青春を謳歌していたが、部員からは「小川は我々と一線を画していた。」と言われるように、当時は二流の山と見なされていた谷川岳に通いつめていた。仲間とはしゃぐ一面を持っていたが、一方では山登りに対する孤高を胸の奥に秘めていた。東京帝大に通う傍ら、谷川岳、穂高岳、剣岳なので初登攀を記録していく。

8−1、谷川岳幽ノ沢左俣第二ルンゼ初登攀

▲ 幽ノ沢を登る これまで誰も足を踏み入れなかった幽ノ沢を初めて登った記録でもある。昭和6年7月24日~25日にかけての東北帝大の岳友との登攀であった。幽ノ沢は暗い恐ろしい印象を与える名前である。初めは滑滝の多い沢登りであるが、奥に入ると目の前が大きく開け明るいスラブの岩場が広がる。目の前の右股は登りつめると中央壁やV状岩壁に遮られるが、左俣は大きく開け見上げるようにルンゼが堅炭尾根の稜線に這い上がっている。小川パーテーは出来るだけ雪渓を登りつめ、第一ルンゼに取り付き、やがて第二ルンゼに入り、クラック、チムニなどを利用し登りつめるが、雨とルンゼの流水 幽ノ沢を登る にずぶ濡れになり、午後7時10分テラスでずぶ濡れのビバークに入る。翌朝藪漕ぎをして一ノ倉岳の山頂に立ち、蓬峠を経由して幽ノ沢へ戻る。このルートも現在では4級(困難)、A0(簡単な人工登攀)程度の登攀技術をようするが、小川は1本のハーケンも打たず登っている。

8−2、谷川岳幽ノ沢右俣、右俣リンネ初登攀

7月27日には右俣に入り、岩壁に中にあるリンネ(岩溝)を登り堅炭尾根の稜線に出るが、リンネ内は水流が流れ岩は安定しているが,逆層の岩はホールドに乏しく、困難を極めたが何とか登りきる。稜線でビバークして翌日下山する。このルートも4級、A1(人工登攀)ほどの登攀技術を要するが、小川パーテーはハーケンを使用しないで登っている。この後にマチガ沢の上部にあるオキの耳東南稜も初登攀している。

8−3、穂高岳屏風岩の初登攀

1)第二ルンゼ初登攀(昭和6年8月14日~15日) 昭和6年7月に谷川岳で幽ノ沢の初登攀をした小川は、8月に東京帝大スキー山岳部部員2名と前から狙っていた屏風岩を登る為に上高地から横尾に入る。 屏風岩には大正末期7月に慶應大学山岳部の佐藤久一朗以下3名が屏風岩の正面岩壁の最も右側にあった第二ルンゼに取り付くが、三番目の滝まで登って下山したのが初めてのチャレンジである。小川は昭和3年屏風岩の偵察をしており、屏風岩の登攀は長年の夢であった。横尾から屏風岩を見上げると、一番左側に第一ルンゼがありその右に東壁が圧倒的に聳え、中央壁、北壁、第二ルンゼ、右岩壁と並んでいる。当時の屏風岩は正面の東壁、中央壁、北壁、等の岩壁を登れるほど、登攀技術も登攀用具も発達していなかったので、ルンゼ(岩壁の中にある大きな岩溝)からの登攀しか出来なかった。第二ルンゼは中央の岩壁の最も右側に位置し、これ等中央岩壁の裏側を屏風の頭まで突き上げている。横尾谷から登り、北壁の裏側に食い込む多くの滝を持ったルンゼを登り屏風岩の頭まで登りつめる。 この登攀は屏風岩を始めて登った記録である。

2)第一ルンゼの初登攀(昭和6年8月21日) 屏風岩東壁の左側にある第一ルンゼは現在でも大変困難な登攀ルートとして名高いルートで、登攀技術でグレード5級(大変困難)とされている。このルートも小川はハーケンを打たずに登り切っており、さすがに鋲靴はやめて足袋を使用しフリクション(摩擦)を利用して登り切った。ルンゼ内は長年の雪崩や落石で磨かれており、滑りやすい岩肌なので、足袋の登攀利用は良く考えられている。登攀パートナーには実の弟猛男(早稲田スキー山岳部)と小槍登攀のパートナー熊沢(東京高等学校山岳部の後輩)と信頼できる実力ある人物を選び、意を決して行われたと思われる。この素晴らしい登攀も日本山岳会の会報「山岳」に掲載されたが、雑録扱いで大きな評価は与えていない。この時代の山登りでは、これほど困難な登攀は経験の無い日本山岳会の登山家達にはその真価を評価する事が出来なかった。それほど時代の先を行くクライミングであった事が分る。私も屏風岩の正面東壁を登っているが、いつも左側に第一ルンゼが見えていたが、その垂直度は東壁とあまり変わらないほどであった。

8−4、谷川岳一ノ倉沢本谷4ルンゼ初登攀(昭和6年10月18日~19日)

谷川岳の一ノ倉沢を忠実に登と本谷4ルンゼとなる。小川は滝沢を登る予定であったが、オバーハングしている出合の滝は登攀不可能と判断し、そのまま一ノ倉沢の本谷を登りつめ、多くの滝を登攀し登り切り、上部でビバークしている。小川は多くの登攀をしているが、軽装で一気に山頂を極める登山スタイルなので、ビバークは覚悟しており、この時代にビバークをこれほど多く取り入れている登山家は居ない。

8−5、穂高岳での冬季登攀

冬の穂高岳を登るには当時はベースキャンプを作り、此処から前進してアタックテントを築き山頂を狙う方式が最新の大学山岳部のやり方であった。これに対し小川登喜男はヨーロッパスタイルの1日で山頂に登頂しその日に下山するアルパイン方式をこの時代既に採用している。これはヨーロッパの登攀記録を良く知っていたので、このような方式を取ったものと思われる。この為には装備を出来るだけ少なくして荷を軽くし、スピーディーに行動し、最悪時にはビバークをする覚悟が必要であったが、岩登りではこの方式を採用している。

1)西穂高間ノ岳(昭和6年12月29日)午前9時に上高地発、間の沢を登り、雪崩の危険を考え途中からリッジに取り付き、山頂に至る。午後8時30分上高地着。装備はスキー服で登っている。

2)奥穂高岳「南陵」積雪期第二登(昭和6年12月31日) 早朝に岳沢をスキーで登り、どん詰まりまで行くと東京帝大パーテーのスキーデポがあり、前日に奥穂高岳に初登攀している。凍った岩場は小川にとってそれほど難しいルートではなく、山頂に至る。その日の午後8時40分に上高地に下山しており、1日で冬季の積雪期奥穂高岳を昇り降りすると言う、素晴らしい記録と思う。これは現代のアルパインスタイルの1日で山頂へ登り下山する、ラッシュタクテック方式の実践であり、この時代には行われていない登山である。

3)奥穂高岳「岳沢コブ尾根」積雪期初登攀(昭和7年1月5日 )▲ コブ尾根の岩峰

岳沢からジャンダルムを登る為に、コブ尾根を登りコブの岩峰基部でザイルを付け、100mほどルンゼを登り昼の12時頃コブ尾根山頂の岩峰に立つ。これから雪稜のラッセルや氷壁を登り、午後4時ジャンダルム山頂に登り着く。帰路は畳岩を経由し、懐中電灯便りに午後10時に上高地にたどり着く。この登山もスキー、アイゼンを使用して、1日で山頂までピストンするアルパインスタイルの登山を実践している。

4)前穂高岳「北尾根涸沢側1峰2峰間リンネ」積雪期初登攀(昭和7年1月7日 〜8日) 午前2時40分徳沢小屋を出発しスキーで涸沢に向かう。涸沢より前穂高北尾根 三峰の基部までスキーで登り、これよりアイゼンで氷結した岩場やクーロアール、 最後の岩場を登り、前穂高山頂に14時35分に辿り着く。12時間の行程であ り、これより北尾根をアップザイレンで下降しスキーデポ地に着く。涸沢の下降 で小川はスキーを一本流してしまい、一本スキーで下降する。翌日夜半3時に徳 沢小屋に辿り着く。このパーテーは3人の東京帝大でも屈指のアルピニストの集 まりであった。24時間行動の厳しい登攀であった。

 

9.剣岳での積雪期の登攀

9−1、剣岳「八ツ峰の1峰東面の1稜から5・6コル」積雪期単独初登攀4月2日

この後4月4日に早稲田山岳部員2名と八ツ峰上半分も登攀(第二登)し、この 後に、早稲田の今井部員とチンネの頭まで積雪期の初縦走を果している。
9−2、剣岳「源次郎尾根」積雪期単独初登攀(昭和7年4月9日)
剣御前小屋を午前6時50分に出発し、積雪期の源次郎尾根を登り山頂に達し、 平蔵谷の支稜を下り平蔵谷を下降し、剣沢を登り返し剣御前小屋に午後5時に辿 り着く。

 

10.穂高「明神岳五峰東壁中央リンネ、中央リッペ」の初登攀(昭和7年7月31日)

4人パーテーで嘉門次小屋を朝5時半に出て、3時間で明神東壁基部に着き、東壁中央のルンゼを登り、なお中央のリンネに入りこれを登り、途中から右のリッペ(支稜)に逃げ直上しし最後の岩壁を登り、山頂に辿り着く。この登攀は当時としては技術的にきわめて高度な登攀だった。戦後はこの壁も登られるようになったが、この時代に明神岳の東壁に目をつけ登攀した事は大変先見性がある。

 

 

 

 

 

 

11.小川登喜男最後のクライミング

11−1.谷川岳一ノ倉沢「衝立岩中央稜」初登攀

衝立岩は一ノ倉沢の中央に三角形の正面岩壁を聳えたて、人間を拒絶する様に立 っている。この岩壁の左の稜を中央稜といい、右の稜を北稜と呼んでいる。衝立岩の正面壁の左の中央稜は垂直度が高く、一ノ倉沢を一望する素晴らしいルートである。小川登喜男は衝立岩に対して「いつも一ノ倉沢を訪れるたびに、いわば目障りなそんざいとして私の眼に映っていた」と雑誌に書いており、衝立岩のどこかに登らなくては気がすまなかったのであろう。中央稜は右の衝立岩正面壁、左に烏帽子沢奥壁に挟まれてた場所にあり、大変良い位置なので小川登喜男としては、現在の登攀技術で登れるのはこの中央稜と判断したと思う。私は始めて本番で登攀したルートがこの中央稜であった。3ピッチほど垂直な岩稜を登って、前のパーテーの遅さに嫌気がさしアップザイレンで下降してしまったが、中々素晴らしいルートだと思った。当時はこの垂直な岩稜は誰も登ろうとは思わなかった時代である。中央稜は現在の登攀グレードで4級(困難)と為っている。

11−2.谷川岳一ノ倉沢「烏帽子岩南陵」初登攀

▲ 衝立岩(三角形の左が南稜、隣が中央稜) 中央稜を共に登ったに東北帝大時代からの先輩である田名部と、次は烏帽子岩の 南稜を登ろうと約束していたが、田名部が仕事で登れなくなってしまい、パートナーを信頼できる実弟の猛男として南稜に挑む。10月28日に新雪が衝立岩の基部まで降りた一ノ倉沢に入る。一ノ倉沢から岩稜を登り中央稜の基部に至り、左の烏帽子沢上部のスラブをトラバースして南稜の取り付き点に到る。現在は此処を南稜テラスダリがと呼び3畳程の広さがあり、現在は大変人気のある南稜のスタート点となっている。南稜は現在多くのハーケンが打たれてお衝立岩(三角形の左が南稜、隣が中央稜)り、沢山の支点で全に登る事が出来るが、小川登喜男はわずか3本のハーケンを打ったのみで初登攀している。南稜は現在に登攀グレードで4級(困難)と為っている。

 

12.社会人となった小川登喜男

仕事に就いてからの小川登喜男は仕事一筋の生活となっていった。山はハイキング程度にとどめ、山岳部のOB会にもほとんど出席しなかった。30歳頃にベルトコンベアーに挟まれ指を数本失い、登攀は出来なくなる。小川登喜男は大同製鋼株式会社の専務取締役にまでなるが、昭和24年12月10日当時は不治の病とされていた結核で41歳の若さでこの世を去ってしまう。まだまだ活躍して立派な経営者となれたはずであるが、戦後の混乱期に夭逝してしまったのは、誠に残念な出来事である。ザイルを結び合った弟の小川猛男が臨終の床に駆けつけた時に小川登喜男は「もう一度穂高に登りたい」と口にしたという。この稀有の天才クライマーのご冥福を心よりお祈りいたします。