HOME > 勉強会 > 山岳雑誌の歴史について[戦後編]

 

山岳雑誌の歴史について[戦後編]

 
1.はじめに

前回まで山岳雑誌の歴史について〈戦前〉の昭和19年まで書いてきた。大正時代にスタートした山岳雑誌は多くの岳人に支えられ戦後も発展をとげるが、逆に多くの雑誌は戦後の自由経済の中で販売合戦に負け消えていった。別表「山岳雑誌の歴史一覧表」は私が今まで調査した内容で,完全ではないが戦前、戦後を通じ多くの雑誌が誕生した事が分かる。現在我々が手に取ることが出来るのは、「山と渓谷」「岳人」「新ハイキング」そして何回も中止しては復刊した「岩と雪」が「ロックアンドスノウ」として生き延びている。

 

2.昭和20年―25年

先に「岳人」と「山岳雑誌に見る戦後の復興」で終戦直後の山岳雑誌について、多少詳しく書いたのでここでは時代の流れと山岳雑誌の変遷について書いてみたい。昭和20年から25年までは日本が初めて味わった敗戦と言う出来事の中で、日本人が最も不安な未来を思いつつ生きた時代であろう。昭和20年8月15日の終戦後、日本は米国に占領統治され日本国民は不安の内に昭和21年の正月を迎える。しかし1月には早くも「山と渓谷」1月号が戦後第1号の山岳雑誌として発行され、7月にわ「山小屋」が発行される。 人々が食べる事に苦慮している時代でも多くの岳人は山を求め、登り、そして貪る様に山の本を求め読んだ様だ。21年は公職追放令により戦前活躍した多くの人々が職を失い、又東京軍事裁判が開廷し日本の戦争責任を問われた厳しい時期であった。 昭和22年こうした厳しい時代の中、5月にまったく新考えの山岳雑誌「岳人」が創刊される。同時5月「山と高原」、9月に「山」が復刊される。「岳人」は京都大学の医学生、伊藤洋平が世界のヒマラヤを目差し、本格的な世界に通用するアルピニズムを基に編集された。 戦後間もないこの時期に早くもヒマラヤを目差し,積雪期の登攀を主とし記録をのせている。 伊藤洋平は穂高の屏風岩の積雪期初登攀者でもあるアルピニストである。伊藤洋平は京都大学の岳友であるスポンサーと共に2人で「岳人」を創刊したが、僅か36ページの小冊子が今日まで残ったと云う事は如何に伊藤洋平の山に対する考えが優れていたかがよく分かる。 昭和23年は東條英機以下7名が戦犯として処刑され、多くの戦争責任者が巣鴨収容所に入れられる。しかし11月には日本山岳会の「山岳」が復刊される。 昭和24年1月「風雪のビバーク」で著名な松波明が槍ガ岳の北鎌尾根で遭難する。「山小屋」の3月号にその第一報が記され、その後遺体が発見されてから青山墓地で葬儀が行われた。7月に「山」と「山小屋」が合併し「山」160号として朋文堂より発刊される。 昭和25年、日本と米国にとって朝鮮戦争と言う大きな出来事が勃発し、日本経済の復興をそくし、山の世界では6月3日フランス隊が世界で始めての8000メートル峰、アンナプルナ峰に登頂する。その報告書「アンナプルナ峰登頂」は世界にそして日本に大きな反響を与える。アンナプルナ峰の登頂は「山」8月号に日本で始めて登頂報告がされる。5月には現在でも多くの読者を持つ「新ハイキング」が復刊し今日に至っている。8月には又もや「山」が「山と高原」と合併し「山」173号として発刊される。 朝鮮戦争は西側諸国に共産化の恐怖を与え、今日まで北朝鮮として大きな問題となっている。米国は日本の共産化を恐れ、工業力の有る日本を早く独立させ自由主義国家として発展させるべく、日本の独立を早くも認めざるをえなくなる。

 

3.昭和26年―30年

昭和26年、「サンフランシスコ平和条約」を締結し西側諸国において独立を認められ、朝鮮戦争による軍事特需により日本は一気に敗戦のショックから立直る。 昭和28年、5月29日、世界の最高峰エベレストがイギリス隊によりついに初登頂される。 8月30日、戦後日本初のヒマラヤ遠征隊が日本を発つ。京都大学登山隊であり、「岳人」の主張どうり伊藤洋平も参加している。 昭和29年には世界第2の高峰、カラコルムのk2峰がイタリヤ隊により初登頂され、昭和35年のダウラギリ峰の初登頂で中国圏の1峰を除き8000m峰全てが登頂されてしまう。社会的には米国の核実験による死の灰が日本を恐怖に落とし入れる。5月には「山」が「山と高原」と名前を変え215号として発刊される。

4.昭和30年以降

昭和31年、5月9日、日本は大望の8000m峰、マナスル峰に初登頂する。そして大きな登山ブームに発展する。11月に「ハイカー」が山と渓谷社から創刊される。この「ハイカー」が何時まで発刊されたのかまだ調査していない。31年から33年までは日本の積雪期の岩壁の初登攀が集中しており、日本の岩壁のビックルートはほとんど登りつくされる。この時代日本のアルピニスト達は狂った様にその情熱を氷雪の岩壁に向ける。昭和33年,登攀不可能と言われた谷川岳の1の倉沢「衝立岩正面岩壁」が雲稜会の南広人により初登攀され,狂気の終宴をつげる。こうした登山界の状況を感じてか、3月に「アルプ」、7月に「岩と雪」、10月に「ケルン」、と立てつずけに格調の高い山岳雑誌が誕生する。「アルプ」は昭和58年300号をもって終わり、「岩と雪」は何回か中止の憂き目に会いながらも、平成7年まで続き今日「ロックアンドスノー」と言うフリークライミング雑誌に変貌している。「ケルン」は僅か7号をもって昭和35年に廃刊となってしまう。 以降我々の知っている山岳雑誌は生まれていない。話題としては『山と高原』に昭和34年3月号より、深田久弥が「日本百名山」を連載し38年4月号まで50号に渡り書きつずけ完成している。後にこれお1本の本に纏めたのが「日本百名山」として発売され、今日山のベストセラーとなっている。一般市販の雑誌ではないが山岳展望の会『代表,安川茂雄』が昭和38年に同会の同人雑誌として『山岳展望』を創刊したが8号で廃刊となってしまう。この会は、明治、大正、昭和と活躍した岳人の代表的な人々の集まりであるが、安川茂雄は昭和33年の「ケルン」の7号廃刊に次、此処でも8号で廃刊の憂き目を見てしまう。雑誌と言うものは、大衆の潜在的な欲求を常に探り、記事の内容を決めて行かなければならず,自分達の主張を述べたのでは中々一般の人々には受け入れられない事が良くわかる。 以上大正時代にスタートした山岳雑誌の歴史を振り返って見たが、今日我々が手に取ることが出来るのは「山と渓谷」、「岳人」,「新ハイキング」のみとなってしまった。栄枯盛衰世のならい、とは言え雑誌の世界と云うものは中々厳しいものがある。山岳雑誌と云うものは、私にとって思い出と懐かしさが一杯つまった大切な物である。我々にとっては大切な情報源であり、山登りの一部でもある山岳雑誌を大切にしたいものである。