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江戸のアルピニスト 播隆上人の槍ヶ岳開山

 
1.はじめに

槍ヶ岳は登山者なら誰でも一度は登ってみたいと思う、憧れの山である。私も昭和39年22歳の夏、友人と二人で登ったのが最初である。山頂は槍の如く岩が突き出ているので、現在は鎖、梯子などで安全に登れるようになっている。もしこの鎖、梯子などが無ければ多少岩トレでもしないと、登るのは怖いかもしれない。この槍ヶ岳を江戸時代、今から176年も前に43歳で初登攀した「播隆上人」こそ、日本初のアルピニストと言えるであろう。播隆上人は自ら書いた古文書によれば、笠ガ岳、槍ヶ岳、穂高岳、槍ヶ岳西鎌尾根より笠ガ岳縦走と素晴らしい登山をしている。播隆上人の槍ヶ岳開山に関する主な文献、資料は以下の如くである。

1、加多賀嶽再興記 播隆上人 1823年(文政六年)出版

2、信州槍ヶ岳縁起 播隆上人 1834年(天保五年)出版

3、槍ヶ岳絵図 播隆上人 1835年(天保六年)作図

4、槍ヶ岳の美観 丸山注連三郎、他2名 明治39年 出版

5、槍ヶ岳開山 播隆 穂刈三寿雄、貞雄 昭和57年 出版

以上5点の資料が基本であるが、1〜3までは江戸時代の版木での出版物であり、現存する物がわずかしかなく我々の手には入らない文献であるが、幸い昭和53年に日本山岳会が、全く現物どうりの和紙印刷の復刻本として出版したので、それを古書店で購入した。「槍ヶ岳の美観」も大変珍しく高価な本で、私も自分で持っている本以外はここ10年間見かけたことが無い。これ等の資料を基に播隆上人に関しては多くの書物に色々書かれているが、最も有名なのが新田次郎の「槍ヶ岳開山」であろう。昔読んだことがあるが、改めて古書店で買ってみたが昭和49年発刊、第14版であったので、かなり売れた物と思われる。しかし播隆上人の研究者も言っているが、史実と異なる点が多いのであくまで小説の物語として読んで欲しい。なんと言っても「播隆上人」に関しては、槍ヶ岳肩の小屋「槍ヶ岳山荘」の経営者である、穂刈三寿雄、貞雄親子の共著「槍ヶ岳開山 播隆」が素晴らしい。地元の強みを生かし、こつこつと史実を足で集め、沢山の充実した資料を基に完成した力作である。今回はこれら資料を基に笠ガ岳再興と槍ヶ岳の開山を主とし、「播隆上人」について書いてみたいが、紙面の関係で播隆上人そのものに?しては余り詳しく書けないのが残念である。明治中期に槍ヶ岳に登った、ウオルター、ウエストンや小島烏水など登山家の当時の記録には山頂の祠や仏像に関しまったく触れていない。やっと登った山頂が既に江戸時代に登られていたのでは、アドベンチャー記録としては具合が悪かったのかも知れない。

 

2.おいたち

播隆上人は天明6年(1786年)現在の富山県、神通川(神岡鉱山のいたいいたい病で有名)の支流、熊野川奥の大山町河内に生まれた。(極最近まで天明2年生誕とされていたが、最近の研究で天明6年と判明した。)この村は昭和40年頃廃村になり、播隆上人の生家「中村家」も今は崩れ落ち残骸も土の中となってしまった。生家「中村家」は川内道場と称し、代々一向宗の宗徒が集まり念仏を唱えていた所である。少年時代はありふれた農家の次男坊として平凡な生活をしていたが、播隆上人の出家には種種の説があり、少年時代より勉強家であった上人は15歳で仏門に入り修行し、19歳で多年の宿願が叶い出家したが、その後の修行で29歳で僧侶となった。播隆上人の事について書かれた「開山暁播隆大和上行状略記」によれば、播隆上人は浄土真宗、日蓮宗、浄土宗と転々とするが、俗界同様、権門富貴を求める各宗派の醜い風潮を嫌い、念仏専修に生きようとし寺院内に留まることを諦めた。この為師の許しを得て托鉢に出て深山清浄の地を求め修行し、人跡未踏の山中に入り険しい山を登り、崖の上に坐し苦行修練を極めたと伝えられている。この「行状略記」は直弟子が書いた物なので信じられる資料であろ?。文政4年(1821年)36歳の時、飛騨に現れ現在の奥飛騨上宝村の烏帽子の岩窟に入り、草の芽、木の実のみ食べ90日間念仏を唱えた。翌年文政5年にもこの岩窟で修行し、多くの人々がこの姿を見て播隆上人に帰依したと伝えられている。

 

3.笠ガ岳再興(加多賀岳再興記による)

こうして奥飛騨近村の人々が播隆上人の徳を慕って集まる様になり、播隆上人もこれに応え村々に出向き、念仏講を結んだと伝えられている。古くはこの地を円空佛で有名な「円空上人」が山村を巡錫した事は有名であるが、播隆上人が来る120年も前に円空上人も笠が岳に登っていた。しかしこの名山には登山道が無く、人々が参拝登山出来ないのを残念の思い播隆上人は笠ガ岳登山の再興を決意する。時に文政6年(1823年)38歳6月初頃、初めて笠ガ岳への偵察登山を試みる。下山後地元「本覚寺」の椿宗和尚や、山麓の名主、今見右衛門等の協力を得て登山道の工事に係り、50日ほどで完成し7月29日に再度笠ガ岳に登る。そして8月5日に信者18名を伴い登山を行う、18名の信者は笹嶋村、上平村、赤桶村、田比家村、在家村、岩井戸村と6村の人々からなり、特に女性が2名混じっており、女人禁制の多い山岳登山において、ここでは禁止していない。夕方山頂に着き、播隆上人と信者達は燈明を捧げ、焼香三拝していると太陽が西の空の雲に隠れようとした時、ブロッケン現象が現れ、これを「一心念仏の中、不思議なるかな阿弥陀仏雲中より出現したまう。」と「加多賀岳再興記」には記してある。ブ?ッケン現象とは大きな丸い虹の様な光の輪が雲の中に出来、その中に登山者の影が映るのだが播隆上人や信者達は阿弥陀様が雲の中に出てくれたものと大変感激し、笠ガ岳を霊山として開く為より登山道を整備することとした。翌年は66人の信者を同行し、笹嶋村(現上宝村)より前年登山道を付けた笠谷を登り、山頂に至るルートに道標として石仏を安置し、山頂には5体の仏像が安置された。こうして播隆上人の笠ガ岳再興は多くの信者の協力により完成された。しかしこの笠谷ルートは現在我々が登っている穴毛谷や笠新道の裏側になり、完全な廃道となっている。地元ではこの古典的なルートを調査し、古文書に出てくるこの石仏を5体発見している。山頂の仏像も3体盗まれ、盗難を恐れ残り2体は山から下ろし、上宝村神社境内の播隆塔の中に安置され、毎年夏山シーズンの開幕の頃、塔の前で播隆祭が行われ、その遺徳を偲んでいる。

 

4.槍ヶ岳の開山

笠ガ岳登山によりブロッケン現象を見て「天空の御来迎仏」を拝し感激したが、東方雲海上の峨峨たる山稜の上に一際高く聳える「槍ヶ岳」の峻峰を発見し、これこそ自分が初めて登るべき未登峰であると祈願する。播隆上人はこの気持ちを和歌により「世に人の恐るる嶺の槍の穂も、やがて登らん我に初めて」と決意を詠っている。笠ガ岳再興の2年後、文政9年(1826年)41歳の播隆上人は槍ヶ岳開山のため初めて松本を訪れ、玄向寺を訪問し住職により地元の有力者である、安曇野小倉村の中田九左衛門を紹介される。九左衛門より中田家の分家である中田又重郎を紹介されるが、この当時上高地はどの様になっていたかと言うと、松本から高山に抜ける飛騨新道の開拓が進められていた。ルートは松本―小倉村―大滝山−蝶ガ岳−徳沢―上高地―中尾峠―奥飛騨―高山であり、小倉村から上高地までは既に開通しており、徳沢の奥二の股辺りまではきこりが入っており、この先槍沢からは人跡未踏であった。幸い又重郎はこの飛騨新道の工事に携わっていたので、槍ヶ岳への地理に明るかった。こうして第一回目の登山が又重郎と共に行われ、槍沢に入り今に言う所の「坊主の岩小屋」を見つけ、ここを根城に槍ヶ岳の肩?で登りルートを偵察し下山する。

 

4−1.初登頂を果たす

文政11年(1828年)43歳、第二回目の槍ヶ岳登山を行い、ついに7月20日初登頂を果たし、仏像三体を安置し念仏を唱え世の平和を祈る。そして8月1日には穂高に登り「南無阿弥陀仏」と刻んだ名号石柱を最高頂に安置した事が「播隆言行録」に記載されており、播隆上人自身が描いた絵地図にも穂高に「仏安置」と記されている。しかし穂高のどの頂きに登ったかは不明である。こうしてこの年は北アルプスの盟主、槍ヶ岳と穂高を初登頂してしまう。この後播隆上人は里の村々を歩き、念仏講を行い多くの村人から支持され信者が増加していく。やがて播隆上人は槍ヶ岳に対し「頂上は直立の槍岩であり、自分はルートを開いたが一般の人々がその後絶えて登る人も無く、安置した仏像の御利益も空しく、労して功無きものである。」と考え、一般の人々が登れる様にしたいと思う様になる。初登頂から5年後、天保4年(1833年)第3回登山はこうした考えの元、弟子5人と信者数名を伴い、先の小倉村の中田家を再訪し、協力を得て中田又重郎と弟子5人、信者数名を伴い再び登頂し、その後一人残り山籠もりの為岩小屋で17日間の念仏行に入る。しかし9月中頃の予定日を過ぎても播隆上人が下山しないので又重郎が行ってみると、上人は凍傷にかかり下山出来なくなっており、又重郎に背負われ助け出される。この登山により又重郎の進言で山頂に至る槍岩に鉄鎖を付けることを決意する。

 

4−2.槍ヶ岳山頂の工事

翌年天保5年(1834年)第4回登山はルート整備を主とし、石組職人を同行し6月18日山頂に至り、山頂を縦3間×横9尺(5,4m×2,7m)の平地とすべく工事を行う。これは現在でも多くの人々が山頂に立てる元となっている。又1尺2寸の祠を作り、先の3体の仏像に新たに銅の釈迦仏を合祀し安置すると同時に、わらで作った「善の綱」を架け一般人が登り易くもした。この時播隆上人は53日間山籠を行ったが、この間槍ヶ岳西鎌尾根より笠ガ岳に縦走、往復している。登山道も無かった当時わずか1日で笠ガ岳まで行っており、大変な健脚であった。下山後上人は槍ヶ岳念仏講を結ばせ、村々の信者の教化に勤めた。天保6年(1835年)50歳の折第5回目の登山を弟子4人、又重郎と6月24日に行い、下山は弟子1人を連れ飛騨沢を降り、蒲田に出ている。明治35年8月、小島烏水と岡野金次郎がこの沢を下降し、大変な目に会ったと記している。

 

4−3.槍岩の鉄鎖

天保7年(1836年)には美濃、尾張、三河、信州、4州の信者の協力により播隆上人の夢であった鉄鎖が完成する。しかしこの年は全国的な飢饉にみまわれ、諸国が騒然となり藩庁としては山の神のたたりを恐れ、槍ヶ岳への鉄鎖の取り付けを許可しなかった。こうした事態に上人も困ってしまうが、又重郎を初めに地元有力者が共に許可申請の運動を起こし、藩庁の承認を取り付ける。天保11年(1840年)上人は松本に戻り、各地の信者へのお礼や仏教活動をするが、7月に病気療養となってしまい、槍ヶ岳に登れない播隆上人に代わり、8月には信者により槍ヶ岳に鉄鎖が取り付けられ、播隆上人多年の夢が実現する。しかし時既に多年の難行苦行の為、播隆上人の体は衰弱しており、病に勝てず10月21日美濃太田(愛知県)の信者、林 市左衛門方で55歳の生涯を閉じた。かくして播隆上人は笠ガ岳の再興、槍ヶ岳の開山、穂高岳の初登山と北アルプスの高峰名山にその足跡を残し、輝かしい歴史を刻んだ。山岳仏教の念仏行者として厳しい修行を行い、里人の信者に尊敬され、民衆と共に厳しい山岳を開拓し生きた偉大なる宗教家であり、アルピニストであった。