日本の岩登りの歴史は昭和32年(1957年)3月、先年惜しくも滝沢リッジで遭難死した吉尾弘が谷川岳一の倉沢の滝沢を積雪期に原田輝一と初登攀したことにより大きく変化する。この積雪期の滝沢の登攀は昭和初めに日本登行会がチャレンジし、雪崩で遭難して以来、その困難性より20年以上誰もチャレンジすることは無く、雪と氷に覆われたこのルートは雪崩の危険性から登攀不可能ではないかと言われていた。この為19歳の若きクライマー吉尾 弘の積雪期「滝沢初登攀」は現役で活躍中の多くのクライマー(登攀者)に大きな衝撃を与えた。これ以降日本の岩登り(バリエーションルート)におけるビックルートが次々と多くのクライマーにより開拓されていく。昭和30年より前のバリエーションルートの登攀記録はルンゼや岩稜が多く、大きな岩壁や積雪期の大きな登攀記録は無かった。こうした中で今日でもビックルートである一の倉沢の滝沢の積雪期初登攀は大変大きな登山界の話題となった。
翌年昭和33年1月初めに北岳バットレス中央稜が積雪期として初登攀される。(バットレスの中央稜は昭和23年7月に「風雪のビバーク」で有名な松波 明により初登攀された。)この時積雪期の初登攀を目差す、奥山 彰、吉尾 弘、小板橋徹パーティーと芳野満彦,甘利利明、パーティーが同時にアタックし、話し合いにより1パーティーとなり登攀し初登攀に成功する。このパーティーに参加したクライマーは当時超一流の人達で、各山岳会のエース達の集まりであった。登攀中のビバークでは色々なことが話し合われた様だが、その中で各山岳会のクライマー達が自由に参加出来る「山岳同人会」を作り、アルピニズムをより発展させようではないかとの提案を奥山 彰が出した。これに皆が賛同し下山し東京に帰ってから話し合い、多くの山岳会のクライマーに呼び掛け、そして昭和33年1月末に20数名の若手クライマーにより設立総会が開かれ「山岳同人会」を」設立した。この「山岳同人会」こそ第二次RCCなのである。
RCCとはロック、クライミング、クラブの頭文字を取った名称であり、大正時代の終わり頃、関西の神戸六甲山のロックガーデンを舞台に、藤木九三が設立した山岳クラブの名称で、「単独行」で有名な加藤文太郎も所属していた。ヨーロッパ帰りの藤木はロッククライミングを広く世に紹介するため、クラブRCCとしてロッククライミングを研究し、その技術の完成を目差した。そして昭和8年「岩登り術」水野洋太郎著にて岩登り技術書をRCCとして完成し、その目的を達したとしRCCを発展的に解散する。奥山 彰はクライマーの集まりであるこの同人会の名称は、RCCを考えていたが、大先輩藤木九三には古臭いと反対されたが、深田久弥の後押しを得て新しい時代のロッククライミングとアルピニズムの発展のため、「第二次RCC」という名称をこの若手クライマーの集まりの会につけた。
こうしてスタートした第二次RCCへ参加した現役クライマーはその時代を代表した人々であった。古川純一(日本クライマーズクラブ)、吉尾弘(朝霧山岳会)、松本龍雄(雲表倶楽部)、芳野満彦(アルムクラブ)、奥山彰、田山勝などが代表的である。またアルピニストとして実績経験豊富な斉藤一男(山岳同志会)、望月 亮(雲表倶楽部)湯浅道男、山川淳、などが事務局を纏め、精神的バックアップとして藤木九三、深田久弥、高須 茂、上田哲農、岡部一彦、などの著名人が脇を固めた。当時の登山家としては実にそうそうたるメンバーが揃っており、奥山 彰と言う人物の不思議な魅力が纏めえた集合体であり、他の人ではこの第二次RCCは纏まらなかったと多くの参加者が言っている。奥山彰は大変なアイディアマンで、次々と興味あるテーマを出し、それを皆が実現して行ったようだ。
1)ヨーロッパのアルピニズムを吸収し、ヨーロッパのアルピニストの実力に追いつく為に技術の習得と、より高度なビッククライミングの実践。
2)登攀用具や登山用具の改良。
3)日本の岩場におけるルートの科学的グレーディング付けの研究。
4)以上により将来ヨーロッパアルプスの三大北壁を含むビッククライミングの実践と、その先としてヒマラヤの岩壁へのチャレンジ。
以上であるが、昭和31年に日本山岳会による8000m峰「マナスル」の初登頂は当時大変な登山ブームを巻き起こした。そして若きクライマーの目は登山を通じ世界を見ることが夢となった。ヒマラヤは金が掛かり過ぎるが、ヨーロッパアルプスなら実現可能な夢となった。当時リオネル、テレイやガストン、レビュファー等ヨーロッパアルピニストの活躍が本や映画で日本のアルピニストを大いに刺激していた。しかし其れまでの日本の登攀記録は前穂高東壁A,B,Cフェース、北尾根4峰正面壁、屏風岩中央カンテ、剣岳の多くのフェースなど何れも登攀グレードとしては3〜4級レベルのもので、本格的な岩壁のビックルートである5〜6級レベルのルートは未開拓であった。
昭和30年9月、古川純一、小森康行は谷川岳幽の沢中央壁の初登攀を果す。この壁は今までのレベルを超えた登攀技術と勇気を要求されるルートで、今日でも困難な壁である。そして先に述べた通り、昭和32年3月、吉尾弘による積雪期の滝沢の初登攀が行われ、にわかに岩壁のビッグルートとそのルートの積雪期の初登攀争いが若きクライマーたちに巻き起こる。昭和33年1月末、第二次RCC設立以降若きクライマーの同人達による熱狂的な初登攀争いが始まる。その代表的初登攀記録を以下に上げる。
3月 剣岳チンネ正面壁積雪期初登攀 芳野満彦、吉尾弘
3月 一の倉沢烏帽子奥壁凹状ルート 松本龍雄、奥山彰
6月 一の倉沢烏帽子奥壁中央カンテ 小森康行、JCC
6月 一の倉沢コップ状正面壁 松本龍雄、雲表倶楽部
10月 一の倉沢滝沢第三スラブ 松本龍雄、雲表倶楽部
12月 穂高岳屏風岩中央カンテ積雪期は初登攀 吉尾弘、芳野満彦 昭和
4月 穂高岳屏風岩東壁雲稜会ルート 南博人、雲稜会
8月 一の倉沢衝立岩正面岩壁 南博人、雲稜会
10月 前穂高東壁Dフェース 田山勝
以上であるが、これらのバリエーションルートは登攀グレードにおいて5級(大変困難)と6級(極度に困難)であり、大変困難な登攀を強いられる。初登攀争いの最後の砦として君臨し、登攀不可能と言われた一の倉沢衝立岩正面壁が、昭和34年8月に雲稜会の南博人により初登攀されこの熱狂的な初登攀争いは一段落する。翌年の冬期には衝立岩正面壁も前穂高のDフェースも積雪期初登攀された。これらの登攀記録は第二次RCCとして「登攀者」と題し、昭和38年7月に出版されている。
昭和33年6月に登られた一の倉沢コップ状正面壁で松本龍雄は日本で始めて埋め込みボルトを使用し、人工登攀を行い初登攀者となったが、登山界に大きな物議をかもし出した。この埋め込みボルトはまったくリス(岩の割れ目)の無い一枚岩を登る時、岩にジャンピングト言う工具をハンマーで叩き岩に穴を掘り、この穴に埋め込みボルトを叩き込みハーケン代わりの支点として使用し、三段縄梯子を掛けこれを足場とし上に登る人工登攀時に使用される当時の最先端登攀技術であった。ヨーロッパアルプスでは昭和27年にフランスのシャモニーの町から良く見える、ドリュー針峰西壁をキド、キドマニヨーヌが埋め込みボルトを使用し初登攀しており、登攀不可能と言われたこの壁も埋め込みボルトの使用で登攀され、フランスの登山界に賛否両論大いに沸いた。
こうして登攀不可能と言われたコップ状正面壁で埋め込みボルトが使用されたことにより、その有効性が認められ、最後の課題として残っていた登攀不可能と言われた、穂高の屏風岩東壁が昭和34年4月に、そして最後の課題の谷川岳一の倉沢衝立岩正面岩壁が同年8月に、いずれも雲稜会の南博人が埋め込みボルトを使用し初登攀し日本の岩壁のビッグルートは登りつくされた。私がクライマーとして成長した時は、これらのビッグルートが初登攀されてから既に10年経っていたが、やはり最も難しい岩壁として君臨していた。当時私も色々な岩壁を登ったが、穂高の屏風岩東壁と一の倉沢衝立岩正面岩壁の登攀はかなりの覚悟を持って登った思い出がある。10年経つとボルトのリングも錆びて楕円形になり、支点として自分の全体重を掛けるには、勇気が必要であった。しかしこうした岩壁のビックルートを登ることは、当時としてヨーロッパアルプスの岩壁を登る最低条件でもあった。
この後、穂高の屏風岩や谷川岳の衝立岩に埋め込みボルトを使用し多くのより困難な登攀ルートが開拓された。こうした埋め込みボルトによるより困難な登攀を求める第二次RCCと、古典的な登山感に支配された日本山岳会とのアルピニズムに対する考えの相違は大きく離れていく。しかし結果的にヒマラヤの岩壁のビックルートを目差す時代に入ると日本山岳会は人材不足となってしまい、第二次RCCと融合せざるを得なくなる。
昭和30年前にはヨーロッパやソ連などでは既に岩場の難易度により、登攀ルートにはグレードが付けられ、登攀者は自分の実力からどのグレードなら登れるか、判断出来るように登攀技術が確立されていた。またフランスや、ソ連では国立の登山学校があり、そこで十分トレーニングし実力をつけてから、自分に相応しい登攀ルートを選択し登攀を楽しむシステムが確立されていた。残念ながら主流であった日本山岳会がこうした進歩的な考えを岩登りに関しては持っておらず、古い古典的な山登りに固守し前衛的な登攀を邪道とし、避けてきた結果が日本山岳会にクライマー(登攀者)が育たず、グレード付け作業も行うことが出来なかった。第二次RCCでは、「より困難な登攀」を目差していたので、将来はヨーロッパアルプスの最も困難な岩壁の登攀が夢であり、ヨーロッパのアルピニストの実力にいかに近づくかが課題であった。この為にはまず自分たちの実力がどの程度なのかを知る為に、岩場のグレーディング化が必要であった。
ヨーロッパアルプスの岩壁を目差す第二次RCCとしては、グレーディング方式をヨーロッパ方式の1級(歩くレベル)から6級(最も困難)に難易度をグレード付けする方式を採用し、グレーディング検討グループを設けた。幸いクライマーの集まりなので、多くのクライマーにより日本の代表的岩場である、剣岳、穂高岳、谷川岳の登攀ルートを調査し、その難易度によりグレードを確立していく。難易度は「登攀技術度」「ルートの長さ」「岩の性質」「体力度」「アプローチ」など多くの項目の総合点で登攀ルートの難易度グレードは決定された。一般登山者に知られている登攀ルートでは、槍ヶ岳の小槍(3級グレード)前穂高北尾根、ゴジラの背中の様に岩峰が並んでいる(2級グレード)、北穂高の滝谷(3級〜5級グレード)穂高屏風岩東壁(6級グレード)、一の倉沢衝立岩正面岩壁(6級グレード)などがある。
そして昭和40年11月に日本で始めて第二次RCCにより岩場をグレード化によるランク付けをし、かつ登攀ルート図を付けた「日本の岩場」が出版される。我々はこの本により自分の実力と相談しながら、色々なルートを登りレベルアップに努めたが、大変お世話になった本である。特にルート図は登攀する上で大変参考になり、事前に登攀内容をシュミレートすることが出来た。このグレード化は現代のフリークライミングのグレード化に繋がっている。
昭和38年7月、芳野満彦と大倉大八が日本人として初めてヨーロッパアルプスのビックルート「アイガーの北壁」に挑むが、敗退してしまう。 そして昭和40年夏、吉尾弘を隊長とし第二次RCC同人のクライマーが多数ヨーロッパアルプスに向かう。そして多くのビックルートが登られ、日本のクライマーの力が十分にヨーロッパアルプスの大岩壁に通用することを立証する。この記録は昭和40年12月「挑戦者」65、アルプス登攀記録と題し第二次RCCとして出版された。この時代までが第二次RCCの最も輝いていた時代かもしれない。
昭和45年日本山岳会がエベレスト南西壁にチャレンジするが、クライマーの人材不足のため第二次RCCに参加を呼びかけ、合同で初登攀に挑むが敗退する。早速第二次RCC単独としてもエベレスト南西壁登攀計画を立てるが、昭和47年7月に会の中心人物であった奥山彰が癌で急死する。しかし第二次RCCはエベレストに向け全力を集中し昭和48年にチャレンジするが、南西壁には敗退、しかしポストモンスーン(秋期)の初登頂を加藤保男、石黒久が世界で始めてサウスコルから一気に山頂に至り達成する。8600m以上のビバークは世界でも例がなく命からがらの登頂であった。エベレスト後は昭和30年代に活躍した第一世代の人々も現役を引退し、第二世代の長谷川恒男、加藤保男、森田勝、等が活躍する時代となり、初期の熱に浮された様な情熱も目的もなくなり、個人が各々の立場で活躍する時代となり、第二次RCCとしての求心力は急速に弱まり結束力も弱まって行く。この後長谷川恒男はアルプス三大北壁を冬期単独初登攀し、加藤保男はヨーロッパアルプスで数々の初登攀をし、エベレストの冬期単独初登攀をする。森田勝もアイガー北壁、国内でのビックルートの開拓をするが、ほしくも3人とも山で若くしてこの世を去る。第二次RCCの15年に及ぶロッククライミングに対する努力は若き有能なクライマーの死を乗り越え、日本のアルピニズムをヒマラヤの岩壁を目差すまでに押し上げた。こうした歴史の中で山野井泰史や平山祐二と言う世界的なクライマーも生まれてきた。
第二次RCCを立ち上げそして守ってきた同人達により平成14年6月、「異端の登攀者」が出版された。ここには第二次RCCの会報1〜13号が当時のまま復元され、多くの中心的な人物により懐古録が記され、第二次RCCがなぜ出来たか、そしてどの様な活躍をしたか、そして解散できぬまま今日に至っているのは何故か、などその歴史が語られている。設立当時から第二次RCCで活躍した人々の多くは現在73歳〜66歳頃の人々が多いはずである、青春の舞台としての第二次RCCは忘れがたい思い出としてこれ等の人々には心の中にあり、何時までも消したくない思いが解散を思い止まらせているのであろうか。
著作 | 著者 | 年代 |
登攀者 | 第二次RCC | 昭和38年7月 |
挑戦者 | 第二次RCC | 昭和40年12月 |
日本の岩場 | 第二次RCC | 昭和40年11月 |
岩登りとグレード | 第二次RCC | 昭和43年6月 |
人工登攀とスーパーアルピニズム | 第二次RCC | 昭和43年9月 |
アルピニズムの歴史 | 第二次RCC | 昭和43年10月 |
岳人「岩登り特集」 | 東京中日新聞 | 昭和39年5月 |
異端の登攀者 | 第二次RCC | 平成14年8月 |
雪煙をめざして | 加藤保男 | 昭和57年11月 |