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日本の登山の歴史 bQ

 
3.戦略的及び政治的支配の為の登山―戦国時代
3−1、戦略上の登山

戦国時代より戦争の戦略上で、山岳の要路が重要視されるようになる。相手国への攻め込み、逃げ道として峠道が重要となる。

1)安房峠・・・信州より飛騨へはいる。

2)ザラ峠・・・越中より信州へはいる。(佐々成政冬の峠越え)

3)針ノ木峠・・越中より信州へはいる。

4)朝日連峰・・米沢〜庄内への軍事要路として使用された。

5)三国峠、清水峠・・越後より上州へはいる。(上杉謙信)

6)雁坂峠・・・甲州〜上州を結ぶ重要な峠。国道(武田信玄)

 

3−2、諸藩の山林巡視

江戸時代になると平和となり、山岳地帯を領地に持つ各藩は管理のために山廻り、山守などを置き山林の保護を行った。

1)冨山藩の黒部奥山廻り 黒部川上流一帯、北アルプスの中心部東面20Km南北30Kmを見廻り管理した。明治2年まで続けられたので、多くの山道が開発された。後立山連峰、野口五郎、三俣蓮華岳、薬師岳などが範囲。

2)信州松本藩の山林管理

 (1)上高地には200年前より材木切り出しルートがあった。

 (2)飛騨高山―蒲田川―中尾峠―上高地―徳沢―大滝山―小倉村―松本の飛騨新道を整備した。(槍ヶ岳がり易かった原因。)

播隆上人が書いた槍ヶ岳登山図(飛騨新道が描かれている)

注)江戸時代「上高地」はどの様に呼ばれていたか、当時の古文書によれば「上口地」「上口」「上高地」と記録され、かみぐち、かみうち、と地元では呼ばれていたようである。

3)幕末となり北からの侵略を防ぐ為に北海道の探検が行われた。安政5年2月4日、 松浦武四郎は厳冬期の「羊蹄山」蝦夷富士を登っている。「石狩日誌」「後方羊蹄日誌」「十勝日誌」「天塩日誌」その他、多くの記録を残している。

 

松浦武四郎の石狩日誌

松浦武四郎は幕末に活躍した探険家であるが、日本百名山を19山も登っていると推定される登山家でもあった。勿論全国の多くの名山に登っており、江戸時代随一の登山家であり、こよなく登山を愛した人であった。

石狩岳周辺の沢の地図

 

4.薬草採集の為の登山

本草学者による各地山岳での薬草採取が江戸時代盛んに行われた。

 

白根葵の図 [日光山誌より]            あけびの説明図

上記の図は「本草図譜」と言われる本であるが、あくまで医学の為の薬物治療が目的である。本草学者により多くの草花が採取され、絵が描かれ、草花の医学的効能が記されている。

1)本草学者による登山は幕府の命令を受け行われ、宗教色は無く科学的な探求登山であり、新しい形式の登山である。

2)宗教登山で開かれた山岳を主として登山し、高山植物の採取も行なわれた。(平地では得られない薬物効果を求めた。)

 

5.旅として遊びとしての登山

江戸時代に入り文化文明の発展により登山は多様化した。中でも文人墨客と言われる人々は旅をする事により、文化的、文学的な活動に刺激を与え、又多くの作品も生まれた。歌人、詩人、画家、国学者、儒学者、等。 俳人 松尾芭蕉;「奥の細道」画家、谷 文兆:「日本名山図会」 葛飾北斎:「富嶽三十六景」狩野探幽:「百富士」 学者 植田 孟:「日光山志」(日光の山、植物) 鈴木牧子:「北越雪譜」「秋山紀行」、松浦武四郎:「蝦夷関係文書」

 

谷 文兆の「日本名山図会」 剣岳と立山の図

 

5−1文学としての登山

近代に入り、文人達の旅は明治、大正時代に「山水紀行」文学に受け継がれ、大町桂月、田山花袋、若山牧水、などが活躍し、紀行文、短歌、俳句、詩文、等が発展し多くの文学作品を生み出し、山登りは文学の一部を担うように成っていく。 江戸時代後期から明治にかけて、山登りは日本の文化として発展して行く。宗教―文人の旅―文学―多くの芸術作品―近代登山、への発展は山登りがこれ等の物を内包した、文化である事が理解でます。

「日光山誌」より日光白根山図

6.科学的調査の為の登山

江戸時代に芽生えた科学調査登山は,明治に入り政府のお抱外国人科学者の指導により、本格的になる。明治初期より多くの外国人が日本の山々を登り、測量、地質調査、植物調査、火山調査等行う。

 

6−1、外国人の日本での登山 (1857年の幕末には英国山岳会が創立される)

1)万延元年(幕末)1860年、英国公使オールコックが富士山に登り、気候調査、植物生態調査、地形、高度などの測量を行なった。

2)明治6年、英国人E,ダイバースが大町〜針の木峠〜立山への縦走を行なう。

3)明治8年、ドイツ人、エドモンド、ナウマンが中部山岳、東北の山々、四国の山々の地質調査を行なう。

4)明治16年、エドモンド、ナウマンは富士山に登り最終チェックを行い、新潟県の糸魚川から甲府の釜無川、静岡県の富士川まで火山に沿った大きな裂け目を断層と確認し フォッサ、マグナと名付ける。南北に走るこの断層は日本を東西に分ける大地溝帯である。

富士川から甲府、諏訪、松本、糸魚川に沿った点線がフォッサ、マグナである。

 

6−2、日本人による科学調査登山

1)明治12年:赤石岳(南ア)登山をスタートに「内務省地理局測量班」の技師たちが日本全国の高山に三角標を建て、三角測量法により日本の国土の測量を明治43年ごろまで行う。この為に日本の高山はことごとく則量班により登りつくされる。 (明治の末には測量されたデータを基に、正確な山岳地帯の地図も作られ、 日本アルプスの未知な部分が無くなり、登山の探検時代が終了する。)

2)明治18年:坂市太郎氏地質調査の為に島々―槍ヶ岳―西鎌尾根―三俣蓮華―有峰を縦走する。

3)明治22年:大塚専一氏地質調査の為に後立山連峰縦走。

4)明治28年:「野中至」気象学調査の為に厳冬期2月富士山登頂、富士山測候所開設のスタートを切る。

5)国内ではないが、明治30年には僧侶河口慧海は日本を旅立ち、インドからネパールに入り、5000mの峠を越えチベットに入り、仏教の経典の勉強をしている。

小島烏水が明治35年に槍ヶ岳に登り、後に日本アルプスの父と言われるウオルター、ウエストンと面会し山岳会設立の指導を受け、日本の山岳会が始めて設立されたのが明治38年なので、これ等の登山はかなり早期である。