「高く遠い夢」70歳エベレスト登頂記
もくじ
1.はじめに
4月の末に古書店で買った、三浦雄一郎さんの「高く遠い夢」70歳エベレスト登頂記を、山に行けないゴールデンウイークに読んだ。
さすがエベレストと思わずにはいられない内容であった。エベレストの登攀記録は数々読んだが、登攀ルートが整備されているとは言え、今でも一歩間違えると死に直面するのがエベレストである。65歳でエベレスト登頂を計画し、5年間体を鍛え挑んだ記録である。体を鍛えてまず富士山を登り、なんと65歳で5合目から山頂まで3時間で登ったとのこと。2000年にはヒマラヤ、ゴーキョピーク5360m登頂、2001年ヒマラヤ、メラピーク6476m登頂、2002年ヒマラヤ、チョーオユー8201m登頂と地道にヒマラヤの高度に体を慣らし、そして「エベレスト登頂50周年記念」の2003年に70歳でエベレストに挑む。
三浦雄一郎さんは昭和45年、37歳でエベレストのサウスコル(エベレスト南東稜の末端)約8000mからクウーンブ氷河6500m辺りまで、平均斜度45度ほどの氷壁を滑り降りると言う大変な冒険をし、世界を驚かせた人である。このドキュメンタリーフィルムはカナダで再編集され、なんとアメリカで「ドキュメンタリー部門」のアカデミー賞を受賞している。
2.三浦雄一郎氏とはいかなる人物か
昭和7年に青森で誕生し、昭和31年に北海道大学「獣医学部」を卒業し、研究室の助手を6年ほど務めたインテリであるが、その風貌はとてもインテリらしからぬものがある。お父さんは100歳を越え今だ現役のスキーヤーとして活躍する三浦敬三さんであり、その血は争えず昭和37年にアメリカの世界プロスキー協会の会員となり、アメリカ、プロスキーレースで活躍し、昭和39年イタリヤのスピードレースで時速172Kmの世界新記録を樹立する。以後マッキンレー、キリマンジェロ、エルブルース、アコンカグワ、南極大陸ビンソン、マッシフ5140mなど、世界7大陸最高峰を登頂しスキーで山頂より滑降すると言う偉大な記録を作り、登山家としても一流である事を示している。
昭和45年エベレストのサウスコル8000mよりクウーンブ氷河6500mまで滑り降りた時には、日本山岳会も日本初のエベレスト登頂を計画実行しており、2パーテー同時進行で行われた。植村直己、松浦輝夫が日本人として初登頂しているが、サウスコルで多くの登山家が息絶え絶えの時、三浦雄一郎がサウスコル8000m地点でスキーの練習をしているのを見て驚愕したと、多くの登山家が証言しており、その体力は並ではなかった事が分かる。又エベレストでの滑降でも最後にスピードを落とす為にパラシュートを用いたが、スキーの制動にパラシュートを使用したのも三浦雄一郎が初めてである。
昭和42年に私は単独で1月7日~8日に掛けて冬富士を登りに行った。強力さん2名と山中で会い、気温マイナス30度C、時々襲う突風と地吹雪の中、何とか山頂に至るが気象観測所の所員にお茶とお菓子のもてなしを受ける。その後「冬富士の感想を書いておいて下さい」とサイン帳を手渡される。ページをめくると数ページ前に「三浦雄一郎、富士山直滑降」と書き、パラシュートを着けたスキーヤーの漫画が描いてあり、前年の昭和41年に富士山の吉田大沢を直滑降した折りの記念サインであった。この時初めてスピードの制動の為にパラシュートを使用した。サウスコルからの滑降の為、サウスコルに滞在した三浦雄一郎はサウスコルからは山頂まで800mほどの高度差で聳える山頂を見て、元気一杯だったのでその頂に立ちたかったそうである。その思いが今回の「70歳世界最高齢登頂」を完成させた様だ。
3.70歳エベレスト登頂記録の内容
現在のエベレストはルート中で危険なところはフィックスザイルが何本も固定され、下部のアイスフォール(巨大な氷の滝)には梯子や縄梯子がセットされてルートはかなり整備され、希望者には国際支援隊が山頂までガイドしサポートしてくれる。このため登山には500万円ほど掛かり、入山するだけでも200万円ほど取られるようだ。
今回の三浦隊はシェルパ(高所荷揚げ要員、シェルパ族)17人、ベースキャンプ要員5人、アタックメンバー3名、合計25名と小隊である。ルートが整備され昔のようにルートを切り開く必要がないので、この様な小隊でも登頂が可能になった。登頂メンバー(アタックメンバー)は三浦雄一郎(70歳)、息子豪太(33歳)、村口徳行(46歳)の3名である。三浦隊の登頂は今回でエベレストに3回登頂した村口徳行さんのガイドによるもので、村口さんは日本人として初めて3回エベレストに登頂した、最強の46歳である。
しかし、幾らエベレストがルート整備されようと、その登攀は並大抵ではない。今回も三浦雄一郎と豪太親子は登攀ルートである南東稜末端のサウスコル8000m以上はほとんど酸素を吸って行動し眠りに付いている。酸素を吸はないと歩くことも、寝る事もままならない様だ。2人は高度順応もうまく出来ていても、8000mを超えると酸素無しではどうにもならない「死の地域」となる。8000mのサウスコルからアタックキャンプを設ける8400mまでには今でも数十の遺体がそのまま残され、三浦雄一郎も数体の遺体を見たと書いている。いずれも下山中にサウスコルのテントまで戻れずに亡くなった登山者である。
昭和48年秋に加藤保男と石黒久がサウスコルから一気に山頂を目差し、世界で始めてポストモンスーン(秋期)のエベレスト山頂に立ち、下山中に8650m付近で夜になり酸素も無くなりビバークした記録があるが、これは世界で始めての最高高度でのビバークである。もちろん二人とも死に物狂いで翌日サウスコルのテントにたどり着いた。
初期エベレストに挑んだ人たちは自分でルートを開拓し、登攀しなくてはならず、真に山に強い雪と岩に鍛えられた登山家であった。 遺体が増加したのはエベレストのルートが整備され、登りやすくなりガイドの案内で山頂に立とうという登山者が増えてからである。ある年などサウスコルの近くで一気に10人以上遭難死した記録がある。いずれもガイドにリードされて山頂に立った人々である。時として天候しだいでガイドも自分の命を守るのが精一杯なのが、エベレストなのである。
三浦雄一郎は日本において、片足5Kgの錘をつけ歩行していたという。多くのトレーニングを積み、杏林大学の老人医学研究所での測定では40代の体力と言はれた。そんな三浦雄一郎でも体力的にエベレストでは多くの危険にさらされた。エベレストの登山基地であるナムチェバザールで3月26日より高度順応へのトレーニングに入り、ゆっくり体を慣らしながらエベレストの登山口であるベースキャンプ5360mに4月6日に着き、その後より高度な高度順応のため、エベレストの途中まで登り下りを繰り返す。そしていよいよ山頂アタック体勢に入るのが5月11日であり、1ヶ月以上高度に体を慣らしている。
5月11日
ベースキャンプ5360mからC1(第1キャンプ地)6050mに向かう。この間は氷河の滝であるアイスフォールがある。氷河が急激に高度を下げると、氷河の氷は割れ、氷塊は10m以上の高さとなり、日が当たり温度が上昇すると、氷塊が緩み崩落してくる恐ろしい所である。前回のエベレストスキー滑降時には、此処で10人ほどのシェルパが氷塊の崩落で亡くなった思い出を三浦雄一郎は持っている。梯子でクレバス(氷の大きな割れ目)を渡ったり、縄梯子で氷塊を登ったり、やっとの思いでC1キャンプ地に着く。C1キャンプ地は6050mの高度である。
5月12日
C1キャンプ地よりC2キャンプ地(6450m)に向かう。左はエベレストの南西壁が2400mも絶壁となりそそり立ち、右はヌシュプ山が1500mほど氷壁となりそそり立つ、深い溝の様な氷河を登りC2キャンプ地に着く。
5月13日~16日
C2キャンプ地(6450m)にて停滞。登攀ルートである南東稜から山頂は強風に荒れ、ジェットストリームはエベレストの南西壁を吹き降ろしクーンブ氷河のC2キャンプ地まで吹き荒れる。上部の天候は一向に回復せず、C2キャンプ地に4日間釘付けとなる。ヒマラヤの強風は全く人を寄せ付けない。
5月17日
ベースキャンプからの天気予報で、山頂の強風も治まりそうなのでC3キャンプに向かう。C3キャンプは、クーンブ氷河の突き当たりにあるローツエ山の氷壁(45度の斜度)の中ごろ7300m地点にある。
5月18日
いよいよアック基地であるサウスコルに登る。登山ルートである南東稜の末端にあるこのコルは7984mとほぼ8000mの高度で、やっとの事でたどり着きC4キャンプを設営する。今回山頂アタックを目差したのは22隊、199名であるが、三浦雄一郎の隊は今シーズン初めてサウスコルに立つ。一番小さな隊でありながら先頭を切りサウスコルに入った、村口徳行リーダーとシェルパが優秀であったことが分かる。
4.山頂アタックへ
5月18日にサウスコルに着くが、強風と疲れで翌日19日は停滞とする。さすがに8000m地点では夜寝る時も酸素を使用する。酸素ボンベを荷揚げするシェルパ達がいなければどうにもならない。サウスコルは今まで山頂を目差した登山隊の残した、テントの残骸、使い古しの酸素ボンベ、食べ散らかした食料の残り、等多くのごみが散らかっており、「世界最高度のゴミ捨て場」と言われ、命からがら後の事も考えず下山する登山家が後をたたない事を物語っている。
野口健さんなどが、エベレスト清掃を随分したが、その惨状は今も変わらない様だ。
5月20日
いよいよ意を決して山頂アタックを開始するが、風が強く困難を極めるが、8400m地点になんとかC5アタックキャンプであるテント2張を、岩陰に風をさけ設営する。しかし強風はやまず、先頭を切る三浦隊は孤立する。
5月21日
強風で外に出られず1日停滞を余儀なくされる。またサウスコルのサポート隊も強風で出られず、食料、酸素の支援が届かない。もしこのまま支援がないと山頂はおろか下山時の酸素もそこをつき、危険な状態になる。村口リーダーは三浦親子の命を助けるか、山頂に向かうか、支援の状況で決断を迫られる。70歳の三浦雄一郎と高山の登山に素人の豪太の二人を抱え、この高度で酸素なしでは三浦親子はとても下山できないかもしれない事を、リーダー村口は考えた。サウスコルのシェルパ達も、自分達がアタックテントに、支援の食料と酸素ボンベを届けなければアタック隊がどうなるか十分に理解していたので、三浦隊のシェルパ頭は他の登山隊に、小隊で先頭を切る三浦隊を見殺しにするなと、サウスコルに停滞している隊に明日はなんとしても出発するよう説得する。
5月22日
幸い風も弱まりサウスコルの登山隊が山頂に向かう。三浦隊のシェルパ達も朝に何とかC4アタックテントにたどり着き、アタック隊3名とシェルパ6名にて山頂を目差す。シェルパにとっても、キャリヤにはくが付くので山頂に登りたい気持ちを察し、村口リーダーは若いこれからのシェルパ6人と山頂に向かう。この日は絶好のアタック日和であった事と、ガイドに連れられた登山者が多く、技術的にも体力的にも未熟な登山者が多く、エベレストは渋滞となりやっとの事で山頂にたどり着く。山頂手前のヒラリーステップといわれる、垂直なチムニー(大きな岩の割れ目、人が入り込める)には10本ほどの固定ザイルが垂れ下がっていたそうだが、危険なところは全て手固定ザイルが張られているようだ。当日C4サウスコルにいたり、2日後の24日にベースキャンプにたどり着き、今回の70歳世界最高齢エベレスト登山は完成する。
5.エベレストで三浦雄一郎が感じた事
- ベースキャンプ、サウスコルのごみの多さに驚く。いくら清掃しても追いつかない。(トイレの排泄物はポリバケツに受け、5000m以下の排泄物がなじみやすい土の在るところまで担ぎ下ろす。)ベースキャンプ地帯には何百人と云う人がエベレスト登山の為に集合する。
- アイゼンを自分で装着できない登山者が居る。情けない限りである。
- 危険な場所は全て固定ザイルが張られ、ユマール(登降器)で安全に登れるので、技術的な困難が解消されている。
- 大変疲れ歩行がおぼつかない登山者も、道を譲ろうという気が無く平気で人を待たせ、渋滞し迷惑極まりない。
- 多くの固定用フィックスザイルがあり、古いものを使用しないよう注意しなければならない。
- 多くの未熟なトレーニングされていない登山者が多く、長く待たされ体が冷え、凍傷になり山頂に行かず、下山した人もいる。
- 未熟な登山者が多いと時間が長く掛かかり、酸素ボンベの酸素が無くなり、下山時に体力が無くなり滑落し遭難したり、サウスコルまでたどり着けず遭難死してしまうケースが多い。
- これに強風と寒気が加わると、益々厳しくなり登山者は過酷な状態に落し入れられ、過去に1日に10人の登山者がサウスコルにたどり着けず遭難したことがある。三浦雄一郎さんも遭難し放置された何人かの遺体を目撃したと記している。
6.おわりに
以上であるが、高さ8000mを遥かに超えるエベレストの登山は、ガイドにリードされ、ルートは整備されていつとはいえ、実に厳しいものがある。特にサウスコルを越え、8000m地帯に入ると人間の生きる場所ではないことが、今更ながら描かれ、山頂からの下山時の天候と体力、酸素の有無、下山時間により遭難か否かが決定される事がよく分かる。天候しだいで全てが決まるのが、8000m峰である。三浦雄一郎がエベレストに挑んでいた時、強風で何日か停滞しているが、この時エベレストのとなりのチョーオユー8201mでは、登山者10人が一気に強風で飛ばされ命を無くしている。