ヒマラヤを駆け抜けた男 山田 昇
もくじ
1.はじめに
最近「ヒマラヤを駆け抜けた男」と言う本を読んだが、感動と涙を抑える事が出来なかった。
ヒマラヤを駆け抜けた男
この本は1989年2月、山田 昇と云うアルピニストが39歳でマッキンリーで岳友3人と散った翌年、1990年9月の発刊である。この本を読む限り、山田 昇は日本最強の世界でも稀なアルピニストであった事は間違い無い。山田 昇と云うこの稀有なアルピニストに最も感動した事は、記録はもちろんであるが、多くの人々から愛され、山田自信も多くの岳友を愛した事である。田部井淳子なども一の倉沢でよく、山田さんの明るさに助けられたと云っている。世界で始めて冬のヨーロッパアルプスの3大北壁を単独で登った長谷川恒男が代表する様に、世界に躍り出る様なアルピニストはほとんど中小企業で自分を没して働いており、山だけが自分を主張出来る唯一場所なのである。この為社会生活では周囲の人と馴染めず、孤独な人が多い様であるが、山田 昇は農家ではあるが温かい家庭に育ち、人柄が良かったのであろう多くの人々から愛され信頼された。それゆえにヒマラヤの8000m峰を12回も登頂出来たのであろう。8000m峰1座登るだけでも人間関係が難しいと云われるトップアルピニストの中において、珍しい人物である。
2.生い立ちと登山記録
山田 昇は群馬県の沼田の出身であり、当会の松井さんと同郷である。昭和25年生まれ、生きていれば53歳である。沼田高校を出て、職業訓練教育を受け、電気工事士となり川崎の工場に働くサラリーマンとなるが、高校時代から山登りをしており東京の大きな山岳会に入るのが夢であった。選んだところが「山学同志会」である、しかし同志会の過激なアルピニズムに合わず昭和44年退会し故郷の沼田山岳会にはいる。そして谷川連峰で厳冬期の登攀をし、実力を付けていく。
昭和50年、住み慣れた会社を辞め初の海外登山の為、カラコルムの山々に向かう。そして昭和53年、群馬岳連としてダウラギリ峰8167mの南東稜を初登攀する。このルートはフランス、スイス、アメリカ、と多くの隊に攻撃されるが難攻不落を誇り、世界最強のアルピニスト、ラインホース、メスナーさえさじを投げた。ヨーロッパ、アメリカのアルピニストから「自殺ルート」と呼ばれた大変困難なルートであった。しかし登頂はしたが尊敬する先輩の死に直面し涙を流す、これを機に山田 昇はアルピニストとして一変し、日本最強のアルピニストに変貌して行く。
昭和56年春、世界第三の高峰カンチェンジェンガ8586mに登頂、秋にわランタン・リ峰7205mに初登頂する。 昭和57年秋にダウラギリ峰8167m北壁を、58年秋にはローツエ8516m西壁とヒマラヤの岩壁を登攀する。日本人もいよいよ8000mの岩壁が目標となる。 昭和58年にはエベレスト8848mに登頂し、以後3回エベレストに登る。中でも北面の中国側ノウスコルからエベレストに登頂し、そのまま南面サウスコルに下降しネパール側に縦走し、下山したのも山田 昇が世界で初めてである。
昭和60年には、1年間で8000m峰を3座登り、サッカーで云うハットトリックを行い、世界で6人目のアルピニストとなる。3座とは、エヴェレスト、k2、マナスルである。特にマナスルはエベレスト登頂後、そのままマナスルに向かい岳友と2人でベースキャンプより一気にアルパインスタイルで4日間で山頂に至っており、日本人では当時例の無い8000m峰の登り方であった。 そして亡くなる前年63年に再び1年間で8000m峰を3座を登り世界で稀な強さを見せ付ける。何と云っても山田 昇の強さは8000m峰登頂12回の内、エベレスト、k2、と世界第一、第二の高峰を含め5座を無酸素で登頂していることである。今日の様にルートも装備も整備されていない時代、正に自力でベースキャンプから山頂に至るのであり、大変な事である また同年63年には135日間で世界5大陸の最高峰を登りつくしてしまう。
この様な偉業を成し遂げるには多くの岳友の協力がなくしては在り得ない。山田 昇が如何に信頼され、多くの岳友に愛されて居たかが良く判る。孤独なアルピニストでは決して行い得ない偉業である。 山田 昇は8000m峰を9座、合計12回登っているが、8000m峰アンナプルナ南壁で、2人の岳友を次々と亡くしてしまった事による、自責の念は強かった様だ。8000m峰最後のアタックの時は、自分の身は自分で守るしかなく、とても他人を助ける余力など無い、ザイルは岳友を引きずり落とす役目しかない。この為、一般的に最後のアタックではザイルを結ばない、おのおのが自分を自分で守るのだ。しかし山田はその事に吹っ切れない気持ちがあり、マナスルでは遅れた友を厳冬期の8000mの山稜で待ち、最後の雪稜をトップでザイルを結び2人で山頂に立っている。
3.おわりに
悲劇は突然やって来る、昭和53年から11年間に渡り、毎年の様にヒマラヤの高峰を登り続けた日本最強のアルピニスト山田 昇も平成元年2月、岳友3人と厳冬のマキンレーに39歳の若さで散ってしまう。氷壁の下で3人の遺体はザイルで結ばれていた。なぜアンザイレンしたのかと思う多くの岳人もいる、「友を思う気持ちが人一倍強く、誰からも好かれた山田 昇の最後にふさわしい」遭難現場にたどり着いた先輩がもらした言葉である。
自分の登頂記録だけを追い求めるのではなく、死の世界と言われる8000mの雪稜にあっても、常に友の心を思い、生きている証、喜びを人との関わりの中に求めた稀なアルピニスト山田 昇、より多くの人々に知ってもらいたい人物である。
私が31歳で山とサラリーマンをやめた2年後に山田 昇はヒマラヤ登山をスタートしている。この為、私がまったく山から遠ざかり社会生活に没頭している間、アルピニスト山田 昇は偉大な記録を残して消えてしまった。これから書かれる日本の登山史には重要な登山家として残るであろう。残念ながら山田 昇は登るのに忙しく、記録を余り発表していない。山田 昇自信の書いた山、友への思い、登攀記録をより多く読んで見たいが、残念ながら今は居ない。日本人としての記録の為にも、残りあと5座に迫ったヒマラヤ8000m峰14座の全てを登頂させてあげたかった、残念である。