ラインホスト、メスナーは真の「超人的アルピニスト」か

もくじ

1.はじめに

ラインホストメスナーはイタリアの登山家で現代最高のアルピニストと言われているが、はたして本当だろうか。しかし、現在の山好きな人々から見たらメスナーが世界最高のアルピニストである事に何の依存があるだろうか。

エベレスト

メスナーは初めてエベレストを無酸素で登り、エベレストを初めて単独で登った「超人」であり、初めてヒマラヤの8000峰14座を全て登るという記録も持っている。またヒマラヤの8000m峰の壁4つを初登攀している。世界七大陸の最高峰も世界で始めて極めようとしたが、残念ながら他の人に先んじられてしまった。こうした一般的に偉大な記録保持者であるメスナーは確かに世界最高のアルピニストであることに依存はない。

しかし私はイタリアのアルピニスト「ワルテル、ボナティー」が50年前にアルプスの岩壁で行った、時代に先駆けた究極の登攀活動に比べ、また近代のアルピニズムの「より困難への兆戦」と云ううたい文句より評価した場合、メスナーの記録は何か物足りないと言う疑問を持っていた。この疑問は日本の偉大なアルピニスト小西政継の本を読んでから、いっそう強まった。小西政継はメスナーを余り認めていないからだ。以下にメスナーの登攀記録と日本の代表的アルピニスト「山田昇」と「山野井泰史」のヒマラヤにおける登攀記録をピックアップして考えてみたい。

2.ラインホスト、メスナーの登攀記録

ヒマラヤにおけるメスナーの登攀記録は以下の通りである。

1)8125mナンガパルパットのルパール壁の初登攀(1970年)

2)8163mマナスル南壁の初登攀(1972年)

3)8068mヒドンピーク南西壁の初登攀(1975年)

4)8125mナンガパルパットのディアミール壁単独初登攀(1978年)

5)8848mエベレストの無酸素における初登頂(1978年)

6)8848mエベレストの単独における初登頂(1980年)

7)世界で初めて8000m峰14座全てに登頂

以上であるが8000峰の難易度の高い以下のバリエーションルートの登攀には失敗している。

1)8481マカルーの南壁に敗退

2)8516mローツェの南壁に敗退

3)8167mダウラギリの南壁に敗退

以上がメスナーの最も力を注いだ登攀活動の結果である。

此れを見るとバリエーションルートとして開拓したルートはナンガパルパットのルパール壁とマナスルの南壁、ヒドンピークの南西壁、ナンガパルパット、ディアミール壁の4本である。その他はいずれも一般ルートの単独登頂と無酸素登頂であり、決して当時の記録としても「より困難な究極の登攀」とは言いがたい。もし敗退した3つの壁のどれかを初登攀していれば素晴らしい記録であるが、成功した4つの壁は決して当時初登攀された他の8000m峰のバリエーションルートと比較して難易度の高い壁ではない。

ナンガパルパット、ルパール壁メスナー単独登攀

しかし難易度は余り高くないが8000m峰であるナンガパルパットのディアミール壁を、世界で初めて単独でアルパインスタイルの登攀で登り切ったことは時代に先駆けた特記すべき事である。(この壁はかってルパール壁初登攀のとき下山路に利用しており、氷壁の傾斜も緩くそれほど困難な壁ではない。)

メスナーが活躍した当時、他のアルピニストにより初登攀された8000m峰のバリエーションルートは以下の様なものがある。

1)8078mアンナプルナの南壁の初登攀(1970年)イギリス

2)8481mマカルーの西稜の初登攀(1971年)フランス

3)8125mマナスルの西壁の初登攀(1972年)日本

4)8848mエベレストの南西壁の初登攀(1975年)イギリス

5)7710mジャヌーの北壁の初登攀(1976年)―日本

6)8597mカンチェンジェンガ北壁の初登攀(1980年)日本

7)8848エベレストの北壁の初登攀(1980年)日本

以上、メスナーが活躍した1970年~1980年の記録であるがいずれも難易度が高いルートであり、考えてみるとメスナーの登攀は初期の4つの壁の初登攀以外は一般ルートに味付けしたもので、バリエーションルートの困難な初登攀や厳冬期の厳しい登攀など困難な山のバリエーションルートの登攀はない。メスナーが大きな嶮しい壁や稜の、より困難なバリエーションルートを初登攀出来なかったのには理由があると思う。メスナーは初登攀したナンガパルパットのルパール壁の登攀でパートナーの実弟をディアミール壁の下山時に遭難で亡くし、その行動が隊の方針にそむくという事で、隊長から責められ訴訟を受け法廷に立たされた。

次のマナスル南壁の初登攀時はパートナーがバテて動けなくなり、すでにルートも易しい雪の斜面のみなのでパートナーの了承を得て単独で山頂に至ったが、帰路パートナーを見つけ出せずアタックキャンプに戻るが、探しに行った隊員も戻らず、2人の隊員を遭難で亡くしてしまう。厳しいヒマラヤの8000峰の初登攀ではやむおえない事ではあるが、個性も強く、力も有ったメスナーはこうした経験より登山隊に属する事が合わず、8000m峰を単独で登ることを考えるようになった様だ。こうした事からメスナーは大きなパーテーに属す事を嫌い、小パーテーで登攀することが多くなり、大きな壁は狙えなくなったものと思う。単独や小パーテーで登れる壁は傾斜の緩い氷壁でなければならない。以上の様な事を考えるとメスナーの最終到達点はエベレストの単独登頂であったと思う。

3.日本人2人の登攀記録

山岳同志会、群馬山岳連盟の素晴らしいヒマラヤでの活躍があるが此処ではアルピニストを二人に絞って登攀記録を整理してみたい。二人とは「山田 昇」と「山野井泰史」であるがメスナーとほぼ同時代に活躍した山田昇とスタートに20年の開きのある山野井泰史では記録の評価は異なるが、登攀記録を比較してみたい。日本における世界レベルの登攀の代表としては、小西政継の山岳同志会の活躍と、群馬山岳連盟の山田昇、そして単独登攀の山野井泰史の活躍が上げられる。

3-1山田 昇の登攀記録

私は山田昇こそ日本最高のアルピニストであると思っている。記録、人格、アルピニズムに対する考え方、いずれを取っても素晴らしいアルピニストである。お金に恵まれなかった山田昇が此れほどまでの記録が築けたのも、その人格の良さに多くの人が引き付けられたからに他ならないと思う。メスナーの個人主義に対し、山田昇のパートナーやパーテーを大切にする思いやりは、対照的かもしれない。以下に山田昇の登攀記録を示す。

1)8167m峰ダウラギリの南東稜の初登攀(1978年)

2)8167m峰ダウラギリの北壁ペアルートの初登攀(1982年)

3)8516m峰ローツェの西壁の初登攀(1983年)

4)8078m峰アンナプルナの南壁の冬期初登攀(1987年)

5)8611m峰K2の南東稜の第3登無酸素での初登攀(1985年)

6)1985年と1988年は1年間で8000m峰を3回登り、世界的にも珍しい。

7)10年間で8000m峰を12回登り、8000峰を9座登る。

8)1988年には5大陸の最高峰を世界最速のわずか5ヶ月(135日)で登っている。

9)1988年にエベレストを北稜から南東稜へ世界で初めて縦走する。

以上であるが山田昇が最初に初登攀したダウラギリの南東稜はアメリカ、ヨーロッパの多くのアルピニストの攻撃を退け、遭難者も出し「自殺ルート」と呼ばれていた大変困難なルートである。メスナーもこのルートを狙ったが登れなかった。アンナプルナの南壁は1970年にイギリスのクリス、ボニントン隊が初登攀したルートの第2登となるが、ヒマラヤの厳しい冬期の初登攀である。世界第二の高峰K2の南東稜も第3登ではあるが、初めて無酸素で登っており、メスナーはこのルートでなく、一般ルートとされるアブルッツ稜よりK2を登っている。山田昇の4つの初登攀はメスナーの4つの初登攀より登攀ルートのレベルは高いと考えられる。山田昇はメスナーと異なり、ヒマラヤの8000峰の壁や稜の初登攀を狙い多くの山行をしており、一般ルートと異なり登頂率は実に低い。しかしそうした中でも8000m峰を12回も登り、9座に登頂している事は驚きである。1年間で3回も8000m峰を登頂したのも、メスナーと他に数人しかいないであろう。山田昇は若くしてマッキンレーで命を落としてしまったが、メスナーのように長く登山活動が出来れば、より素晴らしい記録を残したかもしれない。

3-2山野井泰史の登攀記録

山野井靖史のヒマラヤにおける登攀活動は1992年のアマダムラム西壁がスタートで、メスナーや山田昇より20年あとになる。20年の開きは登山方法、登攀技術、装備などあらゆる点で先の2人より有利な状態にあるので、その記録を同一に比較する事は出来ない。山野井泰史の登攀記録を以下に記す。

1)6812mアマダムラムの西壁の単独初登攀。(1992年)

2)8201mチョーオユー南西壁新ルートの単独初登攀。(1994年)

3)8550mK2峰の南南東リブの単独初登攀。(2000年)

4)7952mギャチュン、カンの北壁の単独初登攀、第2登でもある。(2002年)

5)8047mブロードピーク登頂(1991年)

6)8034mガッシャブルム2峰登頂(1993年)

以上が完登した記録であるが、以下に敗退した記録を示す。

1)7925mガッシャブルム4峰の東壁で敗退

2)6473mメラピークの西壁、5700mで敗退。

3)8463mマカルーの西壁、7300mで敗退。

4)8163mマナスルの北西壁、6100mで敗退。

山野井泰史はスポンサーを持たず、自分で稼いだお金で自分の好きなスタイルの山登りを追及したアルピニストで、金銭的には大変苦しい登山活動であった。このために登攀記録の数は少ないが、いずれも困難なヒマラヤのバリエーションルートにチャレンジしギリギリの登攀をしている。(スポンサーが付くという事は、登山内容にも条件がつき完全に自由な山登りが出来ないので、一般にスポンサーは付けたくないが、大きな登山計画の場合1回限りの条件で協賛してもらう事がある。)

ヒマラヤでの大きな壁8回のチャレンジに対し4回単独初登攀しており、立派な記録であり、また山野井泰史はヒマラヤ以外でも世界の困難な岩壁も数多く単独登攀している。ヒマラヤの壁は山が大きいので全てが垂直なところはなく、平均45~65度の傾斜の氷壁に所々岩場が混じるもので、単独で登る場合はスピード、ビレーを考えると、岩場は大変不利であり氷壁の多い壁が狙い目となる。

現状では大きな岩壁のあるヒマラヤの8000m級の山の壁は危険が多く無理であろう。ヒマラヤの8000m級の高峰の壁を単独登攀することはリスクが大変大きく、何回もチャレンジすれば何時かは命を落とす事となる。ギャチュン、カンの登攀では命からがらに下山出来たが、一歩間違えれば遭難は免れなかった登攀であった。ギャチュン、カンの登攀により凍傷で指を切断した山野井靖史にこれ以上危険な登攀をさせない為に神が与えた試練かもしれない。

4.メスナーは真のアルピニストであり超人か

以上3人のアルピニストの記録と概略を記してみたが、世界にはまだまだ遥かに優れたビックウオールの登攀記録を持っているアルピニストがいる。メスナーは金を出してくれるパトロンが居たり、多くのスポンサーに金を出してもらい多くの山を登ったが、山を商売として利用もしてる。純粋に自分のためにより困難なルートに挑戦する真のアルピニストの姿からすると少し外れているような気もする。しかしメスナー自身は何時も自分の為に登攀していると自己主張している。初期の初登攀にしても決して日本の2人のアルピニストと比べ秀でているとは思えないし、記録の中心となるエベレストの無酸素初登頂も、エベレスト単独登頂も一般ルートから行ったもので、時代にショックを与えるほどインパクトはないが、その体力は「超人」と云うに相応しいかもしれない。その意味では超人である事には間違いはない、しかし戦前のイギリスのアルピニスト達が現在から80年も前に8600mまで無酸素でエベレストを登っていることを考えると、装備、高所医学、登攀技術の発達した現代において、メスナーのチャレンジは並外れた革新的なものではないと言えるのではないか。

時代の最先端を行く者は必ず世の中から誹謗される、世界最強と言われたイタリアのアルピニスト「ワルテル・ボナッティー」はその最大の被害者だ。ボナッティーは余りに時代に先駆けた登攀をし過ぎて、危険で常識はずれのアルピニストとマスコミや登山界から誹謗され続けた。

その為に最後は35歳の時、当時究極の登攀といわれた、マッターホルン北壁の厳冬期単独ダイレクトルートの初登攀という誰もが考えても見なかった登攀を行い、わずか36歳で登山界を去って行った。この点を考えるとボナッティーは決して名声を求める為に登攀をしてはいない、名声をえて山で金を稼ぐ事を嫌ったボナッティーは、山は商売の道具ではなく人生の道場と考えていた。故にまだ登れる最高の時に引退をしてしまう。アルピニズムが商売になっている現在、純粋なアルピニズムを追及するのであれば山野井靖史のように自分で稼いだ金で山を登ることが大切になる。

その点メスナーは記録にもあるように決して時代に先駆けた、感動的な登攀は余りしていない、エベレストの無酸素登頂も単独登頂も一般ルートから行われたもので、単に記録に挑戦したに過ぎないという考えもある。 8000m峰14座総てを登ったのも記録を作る意味合いが大きい。メスナーは記録と云う分かりやすい点でマスコミを味方にして自分の名声を上げ、マスコミに売り込み商売をし、むしろマスコミを味方にした。時代に先駆けた登攀がマスコミに理解されず、「危険、邪道、」とマスコミから誹謗された革新的な登攀を数多く行ったボナッティーとは大きく異なる。アルピニズムにおける登攀記録とは「いかに革新的で困難なバリエーションルートを開拓したか」にかかっている。

ボナッティーは山を商売に使う事を最も嫌がったアルピニストである。こうした考えから見るとメスナーの商売がらみの山登りは多くのアルピニストから嫌がられ、ねたまれている事も事実である。登攀回数なども全てを自分のお金で山登りをした山野井泰史とパトロンを持ち、スポンサーを付け、マスコミと商売をして裕福なメスナーとでは比較にならない。しかし私は登山回数こそ少ないが、山登り一筋に打ち込んだ山田昇や山野井泰史の登攀記録のほうが感動を受ける。私は世界の多くのアルピニストの本を読んでいるが、メスナーの本には余り感動は受けなかった。

50歳を過ぎ第一線から身を引いたメスナーが「最近のアルピニストは記録のみを追い求めている。」と批判的な言葉を言った時、私の最も尊敬するボナッティーは以下のように云っている。

記録を追い求めたのはメスナー自身であり、その影響を多くのアルピニストが受けている、その責任はメスナー自身にある。

ボナッティー

5.おわりに

こうしてみると難易度は低いがメスナーは4回もヒマラヤの壁を初登攀し、無酸素でエベレストに登頂し、単独でエベレストに登頂している。また世界で初めてアルパインスタイルで単独で8000m峰の初登攀もしているスーパースターである事には違いないが、やはりその当時として世界で最も困難な壁にはチャレンジしていない事が気になる。

大きな壁を登る為にはパーテーが必要であり、自己主張の強いメスナーにはパーテーに入る事が無理だったのかもしれない。かといってエベレスト登頂以外単独での素晴らしい登攀記録もない。メスナーと同時代には、エベレスト南西壁の登攀隊長「クリス、ボニントン」、ヒマラヤビックウォールのチャレンジャー「ダグ、スコット」、8000峰の壁の単独登攀者「トモ、チェセン」、大変困難なヒマラヤの多くの壁を登攀している「イェジ、ククチカ」、イタリアのレナード、カーザレットなど素晴らしいアルピニストが居るがこれらの資料が手持ちになく、今回は比較できず残念である。次回資料が集まれば、世界の登攀記録を纏めてみたい。

参考資料

1)「ラインホルト、メスナー自伝」 著者:ラインホルト、メスナー 1992年初版

2)「ヒマラヤを駆け抜けた男、山田昇」 著者:佐瀬 稔 1990年初版

3)「垂直の記憶、岩と雪の7章」 著者:山野井靖史 2004年初版

4)「ボナッティー、わが生涯の山々」著者:ウォルテル、ボナッティー2003年初版

5)「小西政継、ボクのザイル仲間たち」 著者:小西政継 1987年初版

6)「ナショナル、ジオグラフィック2003年5月号」エベレスト登頂50周年特集

7)「世界の冒険」 著者:クリス、ボニントン 1987年初版

8)「エベレスト南西壁」登攀報告 著者:クリス、ボニントン 1977年初版

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です