井上靖のベストセラー小説「氷壁」とナイロンザイル切断事件

1.はじめに

昭和32年10月30日発行、発売された井上靖氏の小説「氷壁」は大きな話題を呼び、ベストセラーとなり、映画化もされ井上靖氏を小説家として不動のものにした作品である。 私も当時まだ中学3年生であったが、映画化された事で大きな話題になった事を覚えている。小説[氷壁]は昭和31年11月24日より翌年32年8月21日にかけて朝日新聞に連載され話題になったが、この小説は山における2つのドラマが土台となり、物語が形成されている。やがて私が山好きとなり、多くの山岳書を読むようになったが、小説「氷壁」には幾つかの山岳書が関係している事を知るようになる。それら関係する山岳書について書いてみたいが、以下にそのポイントを書いて見ます。

昭和32年10月初版 「氷壁」

第一にナイロンザイルの切断で命を落とした若山五朗さんの兄が、穂高の屏風岩を初登攀した、クライマー石岡繁雄氏であること。石岡氏は名古屋帝国大学工学部出身の学者である。

第二にこのナイロンザイルの切断遭難事故に兄石岡氏が疑問を抱き、多くの実験を重ねナイロンザイルは岩角などに当たりスリップすると切れやすい事を実証し、ザイル製作メーカーにザイルが切れやすい事を認めさせた。この事によりナイロンザイルは使用されなくなり、段々と廃れていく。なおナイロンザイル切断事故は他にも数件おきている。

第三に偶然穂高の涸沢に月見登山に行った井上靖氏が、同行の登山家安川繁雄氏から、前穂高でのナイロンザイル切断遭難事件の詳細を聞き、小説のイメージが湧いた事。

第四に主人公と主人公を慕う女性のモデルが居た事。モデルは「風雪のビバーク」で有名な松濤明氏と松濤氏に好意を抱く女性であるが、これも安川繁雄氏からの情報である。
第五に小説を書いた井上靖は昭和31年9月に初めて穂高の涸沢に行き、2ヵ月後には小説「氷壁」を朝日新聞に連載物として掲載しているので、いかに強いインスピレーションを「ナイロンザイル切断遭難事件」から受けたかが分かる。以後十数回穂高に行っているが、それらを14のエッセイにまとめ「穂高の月」を出版している。

以上であるが、以下に各項目に関して詳細を書いてみたい。小説「氷壁」の主人公魚津恭太は、 まだ登られていない冬の前穂高東壁をアタックし、ナイロンザイルの切断によりパートナーを亡くし、失意の中で中傷されながら社会生活を送るが、最後は新しい人生を歩む為に単独で穂高に行き、滝谷での落石によりその生涯を閉じてしまう。

2.穂高屏風岩の初登攀と石岡繁雄氏について

昭和24年発行の「屏風岩登攀記」石岡繁雄著作の「序文」によれば、石岡氏は名古屋帝国大学工学部の第一期卒業生で、天文,光学を学び、序文を書いた名古屋大学の須賀太郎教授の良き研究協力者であり、かつ山好きな須賀教授と山行を同行された事に関し、石岡氏に大変感謝していると書かれている。石岡氏は伊藤洋平氏から写真で見せられた未登攀の屏風岩の初登攀に強く引かれた。第八高等学校の山岳部3年後輩の伊藤洋平氏と協力し合い、かつ先陣を争った。

当時伊藤洋平氏は京都帝国大学医学部在籍で今日も発刊されている山岳雑誌「岳人」の創設、発行を行っており、山登りに夢中であった。この二人の当時今だ未登攀であった屏風岩に関する協力者でありかつ先陣争いは有名である。しかし戦後の昭和22年7月、石岡氏の旧制三重県立神戸中学校パーテー(石岡氏と学生1名とOB1名)は屏風岩正面壁の一番右端の中央カンテを完登し屏風岩初登攀の栄誉を得るが、この登攀で石岡氏は指に怪我をし最後のピッチは登れず、少年2名で登り助けを求め、伊藤洋平氏により石岡氏は救出される。

昭和24年発行 屏風岩渡登攀記

石原リーダーによる遭難事故の報告内容は以下の通りである。「岐阜の岩稜会パーテーの石原、沢田、若山の3名は岩壁の上部を登攀していたが、トップに出た若山さんが少し登り石原リーダーと沢田さんの見ている上でスリップし50cmほど落下したが、なんとザイルは切れて若山さんは墜落してしまう。また落下に際してザイルにはまったくショックがなかったと言う。後日ザイルのくずが残り,立証されるがザイルが切れた岩角は90度であった。」以上であるがわずか50cmの落下でザイルが切れてしまうと言う事が大きな問題となった。当然ザイルメーカー東京製綱は反論に出たが、その実験には阪大篠田教授が当たった。一方実の弟がこのような事故で亡くなったことに疑問を抱き、兄の石岡繁雄氏は落下状態と同じ現場を再現し、テストを行い、ナイロンザイルが大変岩角で切れやすい事を実証し、メーカー東京製綱と、阪大篠田教授に面会し、報告した。しかし東京製綱と篠田教授はそれを聞き入れはしたが、岩角を面取りしてザイルが切れにくい方法で、公開実験を行い社会にナイロンザイルは安全だと公表してしまう。

3.ナイロンザイル切断遭難事故

以下の文章は昭和52年7月「ナイロンザイル事件報告書」として岩稜会が発行した非売品の報告書に記載されている事実にのっとり纏めた内容である。 昭和30年1月1日、前穂高東壁においてナイロンザイルの切断による遭難事故が発生する。当時の前穂高東壁は厳冬期においては今だ未登の大変困難な岩壁 であった。

昭和52年発行 岩稜会の報告書(非売品)

昭和30年5月1日中日新聞の記事では「この実験ではナイロンザイルは麻ザイルの数倍の強度がある」と書いている。問題の岩角については、岩稜会ではナイロン繊維の付着した岩壁の岩の石膏をとり、現場の立証をしておいた。この為に石岡氏は正確な岩角の再現実験を行いザイルの切断テストを行っていた。 しかし社会的に認められた東京製綱と阪大篠田教授の論の方が、一般的には受け入れるところとなる。この為に「遭難原因をザイル切断にして、岩稜会は自分たちのミスをごまかして居るのだろう。」との風評が立ち、社会的に中傷を受ける事となり、岩稜会や遺族、パーテーの石原、沢田さんは社会から白い目で見られる様になり、大変苦しい立場に立ってしまう。しかしその後もナイロンザイルの切断による事故が数件発生し問題となり、また昭和30年3月に某レーヨン会社が岩 昭和52年発行の報告書で角の代わりにヤスリを使用して実験したが、麻より大変強度が弱い事が判明、30年4月3日中日新聞の記事で「最近のナイロンザイル切断事故例と、岩場に弱いナイロンザイル麻の20分の1の強度」と書き、社会的には一進一退となるが、岩稜会では篠田教授に対し事実を曲げて報告したとして告訴に踏み切り、公開質問状も提出している。追い詰められたメーカーは昭和33年6月に全岳連5月号に「東京製綱はナイロンザイルの切断事故に関しては、当社に責任あり」との謝罪文を掲載する。石岡氏と岩稜会の実験努力により岩場の岩角はヤスリのようにギザギザが多く、ナイロンザイルは切れやすい事が一般に理解されてくる。しかし東京製綱は先に石岡繁雄氏と協定した、ザイルの強度改善努力や強度試験のデータ公開を怠っているとして、石岡氏は実験を公開する事にした。昭和48年3月12日の産経新聞の記事によれば「ザイル切断により弟を亡くした兄、石岡繁雄物理学教授(国立鈴鹿工専)は学内で、多くの登山者をも招き一般公開実験を行い、ナイロンザイルが実に岩角に弱く、切れやすい事を実証して見せた。」表題には「ナイロンザイルは弱かった」「氷壁論争にケリ」と書いている。昭和50年4月24日、朝日新聞に「企業より人命」「実現まで20年」と表題を書き、ザイルに安全基準が制定され「登山ザイルにSマーク」が付けられる事が記事となった。なお実験には実際に使用された8mmのナイロンザイルと12mmの麻ザイルが比較されている。

小説「氷壁」はこのような事件の中で書かれたもので、大変話題性が有った事もベストセラーの 一因であろう。私も昭和40年ごろからナイロンザイルを使用し沢登などを行った記憶がある。 麻ザイルは水に浸かると重くなるので、ナイロンザイルが使用しやすかったが、昭和43年頃から本格的な岩壁や岩稜を登攀する際は、テトロンや麻のザイルを使用していた。テトロン、麻いずれのザイルも吸水性がよく、沢や雪山では水分を吸収し大変ザイルが重くなったり、冬山ではザイルの水分が凍って針金のようになってしまう事もあった。また当時ナイロンザイルは8mmの物が販売されていたのも、今では考えられないほど細い。私も10mmザイルを使用していたが、ダブルザイルでの使用時は重いので、一般に8mmザイルが使用されていた。

4.靖氏の穂高涸沢への月見登山

昭和31年9月、井上靖氏は誘われるままに穂高の涸沢に月見登山に行った。その時知り合った登山家安川茂雄氏から、前穂高東壁におけるナイロンザイル切断事件の内容を聞き、直ちに「氷壁」のインスピレーションが湧き、関係者の心理状態を考え、小説に書きたくなった、と後年発行のエッセイ集「穂高の月」の中で述べている。なんと穂高に行ってから2ヵ月後の11月には朝日新聞に小説「氷壁」を連載するスピードぶりである。井上靖氏は京都大学で学んだが、当時山岳部の部室を訪れ、部員たちが山での死について冷静に話し合っているのを何度となく聞き、こいつらにはかなわない、と思ったとの感想を書いている。こうした事から井上靖氏は山男の心理をよく理解し、かつ登山方法に関しても理解していたものと推定できる。また関係者の話に寄れば、井上靖氏は書いた原稿を岩稜会の石岡氏や石原氏に内容のチェックをしてもらい、内容の正確性をきした様である。そうで無ければとても冬の岩場でのロッククライミングの描写や、主人公の山男としての行動を描写する事は、山を知らない小説家が2ヶ月で書けるとは思えない。「氷壁」連載中に井上靖氏は3回穂高に行き、ナイロンザイル切断事件の関係者にも会い資材を重ね、インスピレーションを膨らませ、その上で関係者への配慮も考え小説を書き上げていった。

小説「氷壁」と風雪の北鎌尾根に散った伝説のクライマー松濤明

5.小説「氷壁」の主人公とその恋人のモデルについて

5-1.主人公魚津恭介と松濤明(まつなみ あきら)

「氷壁」の主人公魚津恭介の山における活動と、都会における活動に2人の女性との関係が物語となっているが、ナイロンザイルの切断で亡くしたパートナーの妹「小阪かおる」と、主人公「魚津恭介」には明らかにモデルがいる。その二人とは主人公魚津恭介は松濤明であり、小坂かおるは松濤氏の知人山田美枝子さんである。松濤明と秋元克己さん二人の厳冬期槍ヶ岳北鎌尾根における遭難報告書「風雪のビバーク」は登歩渓流会から昭和25年1月6日に非売品として発行されているが、松濤明氏は前年24年1月6日に遭難しており、1年後の追悼として発行されたのであろう。

この報告書のクライマックスはなんと言っても遺体が発見された時、近くの岩陰の発見されやすい所で、流水の恐れが無く比較的濡れにくい所に、会員から借りたカメラと共に死に至るまでの行動手記がライファン紙に包まれ置いてあった事である。やっとの事で二人の遺体を収容しふと岩陰をみるとライファン紙に丁寧に包まれた物を発見し、此の手記を発見する。その内容を読み、捜索隊員全員が声を出して泣いたと言う。その内容は余りにも泰然として死を迎える二人のアルピニストの姿に、大きな感動を覚えるであろう。 最後までお世話になった人々に感謝するメモの内容は涙なくしては読めない物である。 昭和25年に非売品として登歩渓流会から発行された「風雪のビバァーク」は遭難捜索報告書であり、昭和35年7月に発行された「風雪のビバァ-ク」は先輩である杉本氏が松濤明の山行記録を編集した物である。(この手記の現物は現在大町山岳博物館にあり)

風雪のビバーク

昭和25年発行の遭難報告書(非売品)
その手記の最後の主な文章は以下の通りである。(実際の半分ほどの文章に間引きしました)

一月六日 フウセツ 全身硬ッテ力ナシ

オカアサン アナタノヤサシサニ タダカンシャ 一アシ先ニオトウサンノ所へ行キマス

何ノコーヨウモ出来ズ死ヌツミヲオユルシ下ダサイ 井上サンナドニイロイロ相談シテ

有元ト死ヲ決シタノガ六時 サイゴマデ タタカウモイノチ 友ノ辺ニ スツルモイノチ 共ニユク(松ナミ)

父上、母上、私は不孝でした、おゆるし下さい、

治泰兄 共栄君 私の分まで 幸福にお過ごし下さい、

井上さん おせわになりました

荒川さん シラーフお返しできず すみません B 有元

我々ガ死ンデ 死ガイハ水ニトケ、ヤガテ海ニ入リ、魚ヲ肥ヤシ、又人ノ身体ヲ作ル

個人ハカリノ姿 グルグルマワル 松ナミ

竹越サン 御友情ヲカンシャ 川上君アリガトウ (松濤)

有元

井上サンヨリ 二千エンカリ ポケットニアリ

松濤

西糸ヤニ米代借リ、三升分。

以上であるが、この文章は何度読んでも涙が流れるのは私だけでは無いであろう。井上靖もこの遭難報告書を読み、大きな感動を覚え松濤明氏の人となりを生かして、文章に取り入れた事と思う。

小説「氷壁」では最後に主人公魚津恭介が新しい人生を生きる為の決意を秘め、穂高の滝谷の単独登攀に行くが、落石により生涯を閉じることとなる。主人公魚津恭介が落石で重傷を負い、薄れゆく意識の中で書いた手記は以下の通りである。(文章は多少間引きしました)

四時三十五分グライ、ツルム附近ニテ大落石ニ遭テ、失神。

意識ヲ取リ戻ス、七時ナリ。大腿部ノ出血多量。

下半身痺シテ、苦痛ナシ。意識モウロウトスル。

高名ナ登山家デ避ケ得ラレル遭難ニオイテ一命ヲ棄テシモノコレマデニ多シ。自分自身マタソノ轍ヲ踏ムコトニナッタ。

ガス全クナク、月光コウコウ。二時十五分ナリ。

苦痛全クナク、寒気ヲ感ゼズ。静カナリ。限リナク静カナリ

手記はこれで終わっていた。以上が小説「氷壁」の主人公最後の手記であるが、松濤明氏の遭難手記を手本にしている事は明らかであろう。

5-2.もう一人の主人公、恋人小阪かおると山田美枝子さん

主人公魚津恭介を追い、上高地から涸沢そして穂高小屋へと魚津恭介を捜し求める、恋人小阪かおるの姿は、過って松濤明氏を捜し求め厳冬期の上高地へ女一人で入り、西穂小屋に登り蒲田川まで下った山田美枝子さんそのものである。私はこのような噂話は過って読んだ事があるが、しょせん作り話でこれが事実であるとは思っても見なかった。 しかし2004年7月10日文藝春秋より発行された平塚晶人著作の「二人のアキラ、美枝子の山」を浅草の幼友達から紹介され読んでびっくりした。そこにはまぎれもなく松濤明を厳冬期に上高地から西穂高山稜を捜し求めた、一人の女性が居た事が書かれていた。山田美枝子さんと言う若い頃国体にまで出たスキーの名手だった女性が実存した。小説の中で小阪かおるもスキーは巧いが山は登った事がないと書かれている。

2004年7月初版

山田美枝子さんは松濤明亡き後、登歩渓流会に入り山登り、特に岩登りを行い亡き松濤明を偲んだようだが、何と北岳バットレス中央稜冬季初登攀や、谷川岳一の倉沢の烏帽子沢奥壁凹状ルート冬季初登攀をしたアルピニスト奥山章(あきら)氏と出会い結婚し、二人の「アキラ」と言うアルピニストと奇しくも知り合ってしまう。松濤明と山田美枝子さんの関係を井上靖氏に話したのも、先の安川茂雄氏である。安川氏は山田美枝子さんに「氷壁の主人公の魚津は松濤さん、恋人はみいちゃんがモデルになっているんだよ。」「松濤さんとみいちゃんのことを井上靖さんに話したのもぼくなんだ。」と告げる。この事で山田美枝子さんは松濤明の恋人だったと思われ、大変な迷惑と戸惑いをする事となる。なんと安川氏は山田美枝子さんが、松濤明を探しに厳冬期の上高地に入ったとき、偶然に上高地の山小屋で会っていたのである。昭和24年、まだまだ戦後の厳しい時代に冬の上高地に入る女性など居なかったはずである。安川氏は大学の山岳部員として、上高地の木村小屋に泊まっていた。

6.上靖のエッセイ集「穂高の月」

昭和58年6月に井上靖エッセイ集第七巻「穂高の月」が発行された。この中には穂高に関するエッセイが14話書かれている。

井上靖エッセイ集 「穂高の月」

一回の穂高涸沢での月見登山で安川茂雄氏と会い、ナイロンザイル切断事件を聞き、小説「氷壁」のインスピレーションが湧いた事、小説を書くためにその後3回穂高を見に行った事、そして25年間で十数回穂高に行った事、北穂高、奥穂高、前穂高の全てを登った事、等が書かれている。また昭和49年9月に何年かぶりに穂高に行った折、奥又白谷を通り、同行のナイロンザイル切断事故の時のリーダー石原国利氏から「若山五郎君の墓があるので詣ってやってくれませんか」と言われ、ナイロンザイルの切断で命を落とした若山五郎君のお墓に行き、「氷壁」の作者として一度は墓参すべきであったが、十数年過ごしてしまった事を思い、お墓の前で頭を下げた、と書かれていた。「その墓所だけは潅木に囲まれた静かな一画をなし、奥又白の大岩壁と大斜面を望むことのできる、その死にふさわしい奥津城であった。」と書かれている。奥又白の谷から眺める前穂高の東壁は高く厳しい。私も1度は登攀してみたかったが、残念ながらそのチャンスが訪れなかった。

最後に井上靖氏はこんな文章でエッセイを結んでいる。「私は穂高オンリーなのである。他の山は全く知らない。小説氷壁でお世話になった穂高に、最後まで義理を立てている気持ちである。しかし穂高も、梓川も、行く度に表情を改めている。氷壁を書く前年に初めて前穂に登り、それから二十五年程の間に、十数回穂高に登っている。穂高は永遠に若いが、こちらは年々老いてゆく。残念である。」 最後の文章から井上靖氏を大きく世の中に出してくれた「氷壁」を大切に思い、いかに穂高を愛していたかが感じられる。

7.おわりに

ごく最近「穂高の月」と「ナイロンザイル事件報告書」を手に入れた。前から小説「氷壁」に絡んだ色々な事を読んでいたが、完全な資料がなく纏めそびれていたが、「二人のアキラ 美枝子の山」をよんで、松濤明氏をよく知っている女性が現実にいたことを知り、大変感動を受け先の二冊の本の入手により今回纏める事が出来、幸いであった。この内容はより調査してしっかり書けば一冊の本になるほどの内容を含んでおり、今回はほんのあらすじである。

参考資料

  • 小説[氷壁] 井上靖 新潮社 初版 昭和32年10月
  • 屏風岩登攀記 石岡繁雄 硯学書房 初版 昭和24年 5月
  • ナイロンザイル事故報告書 岩稜会 非売品 昭和52年 7月
  • 相田武男氏によるメールでの「石岡繁雄氏とナイロンザイル事件」のアドバイスに関する内容。
  • 風雪のビバーク 登歩渓流会 非売品 昭和25年 1月
  • 風雪のビバーク 松濤 明 朋文堂 初版 昭和35年 7月
  • 二人のアキラ 美枝子の山 平塚晶人 文藝春秋 初版 2004年 7月
  • 穂高の月 井上靖 学習研究社 3版 1985年 1月

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