御朱印沢登り(初☆) 竜神川・武生山編

<武生神社>
御祭神 大戸道尊(天津神 神世七代の1柱)
創建  紀元前660年?

神武天皇のころ「大戸道尊」が武生山山頂に降臨され、大宝元年(701年)に役小角(修験道の開祖)が武生山上に遷祀、社殿が創建されたのが大同元年(806年)3月1日と伝えられる。
 征夷大将軍・坂上田村麻呂(758年~811年)が蝦夷征伐の際、武運長久を祈願、神恩を感謝して本殿を興造して「やぶさめ」の神事を奉納、この儀式は長く伝えられた。

竜神川を遡行し、中武生山を通り、武生山、武生神社に参拝いたしました。

この地域は、
下武生から北へ、武生山、中武生山、上武生があり、ピークは中武生山と武生山。
竜神川は、竜神湖、亀ケ淵を経て北北西に上流があり、白木山の麓まで地図上では確認できる。
この川の流れのくねくね感も、竜神川と言われる所以なのだろうか。
竜神川という名前、
下武生のさらに南には、「竜神湖」があることや、
五行説で、「龍蛇」についての推察があることから、古来より竜神崇拝がなされていたところであることが伺える。
竜神川から途中で北東へ詰めあがると、中武生山に至り、その尾根から1本東の尾根に、武生神社がある。
竜神様の流れを辿って、神社へと行きつけるのは、とても喜ばしいことでした☆

武生山山頂から、すぐ常陸太田市指定天然記念物、樹齢約800年の「太郎杉」があり、その下方向に武生神社の社殿がある。
1786年に再建された社殿には、佐竹紋がついている。
仁王門や梵鐘(昭和38年奉納)など神仏習合の名残が感じられる。

神世七代の大戸道尊が1柱でお祀りされているのも珍しく、竜神崇拝や修験道、色々と混ざり合わさって、現在の「武生神社」が存続されているのは素晴らしいことです。
さすが、奇跡の国、日本!

そして、
運よく、時間ギリギリで御朱印が頂け、感無量でございます。


御朱印沢登り、初!
ありがとうございました☆

参考HP
https://ibarakikuji.com/hitatiota/hitatiota_suifu/14_takyuu.html
https://www.city.hitachiota.ibaraki.jp/page/page000233.html
https://ibamemo.com/2023/09/09/takyu/

追伸
征夷大将軍の「征夷」とは、蝦夷を征討するという意味。

やぶさめ
流鏑馬の起源は6世紀中頃(552年)に欽明天皇が国の内外の戦乱を治めるため、九州豊前の宇佐の地において、神功皇后・応神天皇を祀り「天下平定・五穀豊穣」を祈願し、最も騎射に長じた者に馬上から三つの的を射させた神事が始まりとされている。

佐竹氏
佐竹氏は源氏一族で,平安末期に源義光の孫である昌義が常陸国久慈郡佐竹郷(常陸太田市)に土着定住し,「佐竹冠者」と称したのが始まりである。初めは常陸奥七郷の豪族だったが,鎌倉・室町幕府の御家人として活躍する中で,貞義以降は代々常陸国の守護として,一族の内乱や常陸国内外の諸勢力と戦いながら領国を拡大していった。
 室町末期から安土桃山期の義重・義宣の代には,常陸国を統一し太田から水戸へ進出した。領国を維持していく過程で,守護から戦国大名へと変質し,下野宇都宮氏とともに相模の小田原北条氏や陸奥の伊達氏等と覇を競い,豊臣秀吉旗下の大名として54万8000石の知行を与えられ,「常州の旗頭」に任じられた。
 慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは,東西両軍に対し明確な態度を示さなかったため,徳川家康の命により出羽国秋田へ国替えとなり,祖先の地を離れました。しかし,江戸幕藩体制下多くの大名家が改易等の憂き目をみる中,佐竹氏は外様大名として幕末まで存続していった。

記:ryuji

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です