著名人と山

もくじ

1.はじめに

我々が知っている意外な人物が、山に対し興味を持ち登ったり、文章を書き残したりしている。多くの山の本を読んでいるとこうした事によく出会い、意外な感に打たれる。実業界、文学界、芸術家、等多くの分野の著名人が山に興味を持ち、我々に著作として残してくれているので、これらについて書いてみたい。中には皆さんが良く知っている事柄もあるかと思います。

2.芥川龍之介と槍ヶ岳登山

神経質そうな顔写真や文学作品を見て、龍之介が高校時代体操部に所属したスポーツマンであったとは誰が想像するだろうか。大学に入った龍之介もやる気ある青年で、山登りにも大変興味があり、学友を誘い山にも行ったようだ。槍ヶ岳登山も学友を誘いリーダーとして大正9年夏に上高地より槍沢を登り山頂に立っている。この事を「槍ヶ岳紀行」として書き残しているが、この紀行では槍沢までの情景を記し、山頂に立ったことは書いていないが、同行の学友の証言により間違いなく山頂に達した様だ。

龍之介の代表作である「河童」の出だしは、何と上高地の横尾からスタートしている。少しノイローゼ気味の主人公が、穂高に登るべく横尾谷に入りやがて「河童」に会い物語が始まる。最後河童の国から逃げ出して地上に出る穴から槍ヶ岳が見えた事も記されているので、改めて読んでみることをお勧めしたい。親しみのある河童となるでしょう。龍之介がもし上高地の河童橋を渡り、槍ヶ岳に登っていなければ、「河童」と云う名作は生まれてこなかった事になる。

3.井上靖と小説「氷壁」

「氷壁」は山岳小説のジャンルにおいて最大のベストセラー作品である。この小説は昭和31年11月~32年8月まで朝日新聞の朝刊に連載され話題となり、後に単行本化されベストセラーになった。井上靖は山登りをした経験はなく、この小説を書く前に涸沢に入り穂高の美しさに打たれ、その後登山家の安川茂雄さんに前穂高東壁のナイロンザイル切断遭難事故の話しを聞き、大きなインスピレーションを得てこの小説の構想を思い付いたようだ。しかし井上靖は大学時代山岳部の人間と交遊があったようで、人間の生き死にを語っている山岳部の連中に敵わないと考えていた様で、山登りの本質的な部分は捉えていた様だ。アルピニストと言われる人間の本質を捉えていたからこそ、素晴らしい小説が出来あがたのであろう。

この小説は二つの実在の題材からヒントを得てイメージを膨らませ、物語を組み上げている。一つは前穂高東壁で起きたナイロンザイル切断遭難事故であり、もう一つは松波明の槍ヶ岳北鎌尾根遭難事故報告「風雪のビバーク」の内容と、松波明と交際が在り北鎌尾根登攀成功を信じ、松波明を迎えに厳冬期にたった一人で上高地に入り、なお西穂高山稜を越え新穂高温泉まで行った芳田美枝子さんの話?交え完成された物語である。後年何も知らないでモデルにされてしまった芳田美枝子さんは、「氷壁」の中で穂高の滝谷を登り、上高地に下山する予定の主人公を徳沢園で待つ「小坂かおる」と云う美しい女性のイメージで見られ大変迷惑されたようだ。芳田美枝子さんは昭和5年、飛騨高山に生まれ、女学校時代国体のスキー代表に選ばれるほど当時としては活発なお転婆娘で、写真で見てもスラリとした健康的なイメージの素敵な女性である。戦後芳田美枝子さんは松波明が大変お世話になった徒歩渓流会の井上さんの店で働き、女性クライマーとして穂高の滝谷、屏風岩1ルンゼなどを皮切りに成長していく。

4.東京都知事「石原新太郎」と小説「北壁」

2年ほど前エベレストの北面を捜索中のアメリカ隊が伝説の登山家J,マロリーの遺体を実に70年振りに発見した。「そこに山があるからだ」の名言を吐いたこの英国の名登山家の遺体発見に対し、石原新太郎が新聞に大変情熱的に意見を述べていた。石原新太郎がこうした事に興味があろうとは思っても見なかったが、裕次郎と共に海の男としての新太郎も山男の心境は理解できるのであろうかと思い記事を読んだ。

その後、神田古書会館で石原新太郎の書いた「北壁」と云う小説を見つけた。この小説は新太郎39歳の時書いた作品で、昭和46年に二見書房の山岳名著シリーズの中の一つとして発売された。四編の山岳短編小説から出来ており、以外にもスタートは「アイガー北壁遭難事故」を題材としている。他に谷川岳幕岩を題材としているものも有り、いずれも登攀を扱った内容である。新太郎が岩登りの経験などあろうはずはなく、山の記録を読んだり、聞いたりしたことを題材としているようだ。この小説の「あとがき」にこんな事を記している。

登山にしろヨットにしろ自然と人間の相刻の劇における「存在感」であり・・山や海に挑む人間の尊厳にかけて、又迎えうつ自然の尊厳にかけて・・。

石原新太郎 北壁にて

自然に挑む人間の尊さと云うものを新太郎は大海原の大自然の中で味わい感銘?受け、ドラマチックな山に題材を求め書いたのであろう。小説はあまり面白くない、いたってスタンダードな山岳短編小説である。

5.黒四ダムを作った電力王「松永安左衛門」の山登り

松永安左衛門は慶応大学で福沢諭吉の薫陶を受けた人物であり「決して役人と金を扱う仕事はするな。」と言われ、実業界それも日本に電力会社を育て上げることに一生を奉げた人物であり、関西電力の創立者でもある。

ダムを作る仕事柄当然「谷の奥」を調査する為、多くの山に登っている。松永氏は昭和2年「山登り」と云う写真の多い大変立派な本を出版しており、日本アルプスの多くの山を登ており、このなかで「私は山登りが好きであり、慶応大学の山岳部の社員がいたので同行してもらった。」と書いている。他に後年書いた「松永安左衛門全集」と云う経営者とは如何に在るべきかを書いた経営書があるが、この本の中では建前上であると思うが「私は今まで多くの山を登ったが、これはダムを作る為の調査でありあくまでも仕事の上の事である。」とも書いている。いずれが本心かは分からないが、私は松永安左衛門が出版した、写真集の様な立派な「山登り」なる豪華本を持っているが、この様な本をわざわざ出すと言う事はその内容からも山が大好きであったと思う。

6.福沢諭吉の養子、「福沢桃介」の槍ヶ岳登山

桃介は大変な秀才で福沢諭吉に目を掛けられ、養子になった人である。桃介は明治、大正時代に実業界で活躍した人物であるが、大正6年桃介に孫が生まれ、その記念にと「槍ヶ岳登山」を思い立ち実行したが、その内容を書いた「槍ヶ岳を中心として」と云う小冊子を大正13年に自分がこれから米国に旅立つ事と、孫の慶応幼稚舎入園記念にと出版している。この中で私が大変面白いと感じたことは、当社の社長であり、かつ私の先輩に孫が出来大変喜び「孫は天使だ、孫が出来て人生観が変わった。」と話していたが、これと同じことを桃介が「槍ヶ岳登山」の冒頭に書いており、余りに同じことを言っているので、慶応大学卒で福沢諭吉を尊敬してる先輩に黙ってコピーを送っておいた。翌日こんな事をするのは松浦だろうとあっさり分かってしまう。

7.太宰治と「富嶽百景」

作家「井伏鱒二」は大変な釣り好きで、釣りに関する著作も多い。それも渓流釣りが好きであったようだが、しかし何かの本で「私は山などわ登らない」と書いていた。そんな井伏鱒二が三つ峠脇の御坂峠の宿に長く滞在の折、太宰治が訪ねてきて昭和13年9月9日から12月15日まで居た様である。その折甲府生まれの女性と見合いまで世話をされ、下山後1月に結婚している。この時、朝な夕なに眺めていた富士山を思い人の世を考え書いたのが「富嶽百景」である。

作家として浮ついたところの無い井伏鱒二と、少し浮ついた印象のある太宰治との取り合わせも面白いが、都会派の印象の強い太宰治が御坂峠から毎日富士山を眺め、何を考えて居たのであろうか。太宰治が富士山のことを書き、それも富嶽百景とは考えも及ばなかった。詩人、作家はものを考えそれを文章にして飯を食う者達であり、山は単純な動作の中でいやおう無しに物を考え、かつ大自然の大きさや神秘に触発され、作品のインスピレーションを受けるにはまたとない場所である。

8.フランス文学者「桑原武夫」とヒマラヤ登山

スタンダールの「赤と黒」の訳者であり、フランス文学者としては当代随一と評された「桑原武夫」は京都大学の山岳部出身の猛者であるが、見た目のイメージとは大分異なる。同級生には一生山登りを続け、世界的な猿の権威者となり、自然界にすみわけ論を確立した今西錦司がいるし、南極調査で活躍した西堀栄三郎もおり、昭和の初めから三人はヒマラヤ登山を夢見ていた。

桑原武夫は昭和19年「回想の山々」を出版しているが、3月積雪期「北岳」初登頂を果たした事が記されている。またこの本にはフランス留学中にヨーロッパアルプスを登ったことも記されている。今西錦司は登山家として著名であり沢山の山に関する著書も在るが、最大の仕事は8000m峰「マナスル」の位置を確認し、日本人の山と位置付け現地調査を京都大学として行い、日本山岳会に譲り日本人の8000m峰初登頂を達成させたことである。後に桑原武夫もカラコルムの名峰、花嫁の峰「チョゴリザ」の登山隊長としてヒマラヤに赴き、見事初登頂を果している。この二人はインテリ(知性派)山男の代表である。

9.詩人窪田空穂と北アルプス登山

窪田空穂は大正時代から現代まで活躍した詩人であるが、作風は人間を見つめているものが多い。窪田空穂は北アルプスで2度大きな縦走をしており、その記録を大正5年「日本アルプスへ」として、大正12年「日本アルプス縦走記」として出版しており、山岳関係の文献としても貴重なものとなっている。

「日本アルプスへ」は島々から徳本峠を越え上高地に入り、槍ヶ岳と焼岳に登った記録が記されている。大正時代の焼岳大噴火以前の記録であり、この噴火で梓川が堰き止められ大正池が誕生した。「日本アルプス縦走記」は烏帽子岳から始まり、野口五郎、鷲羽岳、三俣蓮華、槍ヶ岳と続く今で言う「北アルプス裏銀座コース」の縦走である。今のように道が整備されていない大正時代、岩場の多い槍ヶ岳西鎌尾根などは大変であったろう。

10.おわりに

以上8人の「著名人と山」についてほんのさわりを書いてみた。今回は比較的大きな山を対象に人物をセレクトしたが、小さな山を対象とすればまだまだ著名人と山の関係はある。 「山と文学」の関係は切っても切れないものがあり、山を題材とした作品は実に多い。今回は一番若いのが石原新太郎であり、古い歴史的人物が多く、現代人を対象に絞れば又新しい有名人が登場するであろう。

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