志水哲也 「青春の山」

もくじ

1.はじめに

志水哲也は現代の隠れた素晴らしい登山家である。日本の山をこよなく愛し、日本の山にチャレンジし素晴らしい記録をのこした。

志水哲也を知ったのは山岳雑誌であったと思うが、今年になり古書店で13年前(1992年)に出版された志水哲也著作「大いなる山、大いなる谷」を手に入れ、その後10年前(1995年)に出版された「果てしなき山稜」を入手した。志水哲也は現在40歳で妻もいて健在であり、この本の記録を読むと青春時代は死を賭けた登攀に明け暮れていたので、健在である事を大変嬉しく思う。

志水哲也は高校時代落ちこぼれ組で、高校最後の夏休みに単独で41泊かけテントを背負って北アルプス全山縦走をし、本格的な山登りのスタートを切っている。志水哲也の登山は全て単独行で、山登りの為に就職もせず、登山資金稼ぎのアルバイトで過ごした青春時代の、彼の屈折した人生観が出ている。この二冊の本は山が志水哲也という人間を育ててくれた事を物語っており、最近読んだ本の中では特に感銘が深かった。青春の記録として素晴らしい書物である。 志水哲也の山の記録を以下に示す。

1、夏期 北アルプス全山縦走(高校最後の夏休み) 1982年7月~8月(17歳)

2、夏期 南アルプス大井川全沢28沢トレース 1985年6月~9月

3、夏期 北アルプス黒部川 下流域支流主要15沢トレース1986年7月~10月

4、夏期 北アルプス黒部川 上流域支流主要9沢トレース 1987年7月~10月

5、夏期 谷川岳衝立岩正面岩壁単独登攀 1987年6月(22歳)

6、夏期 欧州アルプス ドリュウ南西岩稜単独登攀 1989年8月(24歳)

7、冬期 南アルプス全山縦走 1989年12月~1990年1月

8、冬期 知床半島全山縦走 1991年2月~3月(26歳)

9、春期 日高山脈全山縦走 1991年5月

10、?冬期 日高山脈全山縦走 1994年1月

11、?冬期~春期 北海道襟裳岬~宗谷岬脊梁山脈縦走 1994年1月~5月(29歳)

2.志水哲也の山登り

上記の記録に在るように、志水哲也の山登りは一つの山域を集中的に一気に登ってしまう方法が取られており、大変珍しい山の登り方である。17歳から29歳までの記録であるが、この間に結婚もしており、1994年の襟裳岬から宗谷岬の北海道縦断縦走時には、山登りに夢中な我がままな自分に、家で彼女がいかに心配して待っているか思い悩んでいる。

高校を卒業した後、山登りの為にアルバイトをし、資金を稼いでから黒部の遡行では地元に住み着き、沢登に専念している。又JECC(ジャパン、エキスパート、クライマーズクラブ)に入り技術的にも磨きをかけ、谷川岳衝立岩正面壁を単独で登ったり、日本人としては数少ない、欧州アルプスのビッグルート、ドリュウ南西岩稜を単独で登ったり、クライマーとしても素晴らしい一流の登攀記録を持っている。

志水哲也は今までに無い登山方式として、単独で一つの山域をすべて登り尽くしてしまうという方法を取った。この新しい方式で南アルプスの大井川の大きな沢を総て一夏で登りつくし、北アルプスの黒部川の下流と上流の大きな沢を2夏で総て登り尽くしてしまった。これは日本の登山界では初めてのことであり、又北海道の襟裳岬から宗谷岬まで続く中央山脈を冬から春にかけて一気に縦走してしまうと言う新記録も持っている。

3.高校最後の夏休み(北アルプス全山縦走)

志水哲也は高校3年生から他人と異なった道を選んだ。落ちこぼれ組の彼は友達が大学受験勉強に忙しい夏休みに、期末試験を終えると直ちに1年前から計画していた北アルプス全山縦走に出かけた。山を始める前の彼は「無気力で、意志薄弱で、勉強も遊びも何事も中途半端でむなしい日々を過ごしていた。」と記している。自分が生きているのさえ嫌になってしまいそうだった時、16歳で山に出会う。屋久島の美しい雲海、原生林、清流、一変に山が好きになってしまい、南アルプス全山縦走、冬山、沢登り、岩登りとのめり込んでいく。「山に登る為には不思議とどんな事にも積極的になれた。無気力だった頃の自分がまるで嘘であったかのように変貌していく。僕がこんなに一つの事に一生懸命になれるとは」とも記している。

こうして志水哲也は人生のスタートを山登りに志すという他人と異なった道を選んだ。北アルプス全山縦走のスタートは常念山脈の端、唐沢岳から燕岳、常念岳、大滝山と南下し、上高地に下り、焼岳、槍穂を縦走し、双六岳より笠が岳をピストンして三俣蓮華、より北上し立山、剣岳まで縦走し、黒部湖に降り再び南下し赤牛岳より鷲羽岳に至り、これより再び北上し裏銀座コースから後立山連峰、白馬連峰を縦走し日本海の親不知海岸に下山し全山縦走を果している。テント、食料と大変な荷物であったろうが、42日間のこの大縦走は彼に大きな自信と勇気を与えたであろう。

4.黒部川の主要沢総ての登攀

黒部川主要24沢総てをトレースした事は少なからず山の世界で、志水哲也の存在感を明らかにした様だ。現在の黒部川は黒四ダムをはさみ下流域と上流域に2分されて呼ばれているが、多くの沢が流れ込んでおり、主要な沢が24本ある。手強いのはやはり下流域の15本の沢で、左岸は剣岳、立山の急峻な山脈に囲まれ、右岸は白馬連峰から後立山連峰の急峻な山脈に囲まれ、いずれの沢も実に険しい滝やゴルジュが在り、厳しい岩登りを強いられる。2~3日では登れない沢もあり、下流域15本を登るだけでも92日間という期間を必要とし、3ヶ月間は宇名月温泉のおでん屋の二階を一室安く借り、下宿生活をしながらの沢登となった。これらの沢はいずれも両岸を岸壁に囲まれた深いゴルジュ帯を持ち、岩登りと高巻きによる藪こぎに終始し、大変危険なルートである。又一般にあまり登られていない沢なので記録もルートもはっきりしない、剣沢の幻の大滝のゴルジュ帯などは今だ1度しか登られた記録が無いようなところも在り、実に困難な登攀を強いられる。こうした困難な沢をたった一人で2夏で一気に登ってしまったこの21歳の青年の情熱と決意は大変なものが有る。

5.厳冬期の知床半島全山縦走

アイヌ語で地の果てを意味する「シレトク」、北海道の東端に70km突き出た知床半島。そして南端の海別岳からほぼ中央の知床峠を経て、羅臼岳を通り知床岬の突端まで60kmに及ぶ山並みは、厳冬期に縦走するパーテーはまずいない。ましてこれを一人で全山縦走しようと思いついた人は居ただろうか。全くの白い世界、晴れる日のほとんど無い風速20~40m/sに及ぶ強風とマイナス10度C~30度Cに及ぶ酷寒の中、一人で知床の全山を縦走しようと考えたこの青年は、大変な勇気と意志の持ち主である。前の年の厳冬期に南アルプスを全山縦走し、やや自信を付け知床に挑んだが、入山し知床峠まで行きテントのポールは折れそうになり、小さな隙間から多量の雪が吹き込み、強風が吹き荒れ外に出られず3日で敗退し下山してしまう。

2月6日改めて南端の海別岳に向かい縦走をスタートするが、ワカンで深い雪をかき分け、1週間以上の食料とテントの重荷に耐え、8日間をかけ半島の中央にある知床峠まで縦走する。縦走中ほどの遠音別岳では荷物を担いだ100kgの体が宙に浮き雪面に叩き付けられるほどの強風にも見舞われるほど風は強い。雪降るホワイトアウトの中、不安と疲れと孤独と闘いながらの縦走は大変な事である。孤独との闘いで自分を見つめ

一人で山に入ると、結局人間は一人だと痛感する。友人か沢山いても、暖かい家庭があっても、自分を100%理解できるのは自分でしかない。もし僕が此処で死んだとしたら、僕の抱いている夢は皆、誰にも分からずに埋もれてしまう。一人で山にこもり、現実社会から離れた所でその寂しさを直視するのも、時には大切なように思う。

と記している。縦走記録は命をかけた厳しい8日間であった。

3月1日羅臼より知床峠に登り、羅臼岳より知床岬までの北半分の30km以上の縦走に入る。岬まで7日間、知床岬より引き返しバス停まで2日間の合計9日間を要し無事に縦走し3月9日、知床半島全山縦走を果す。強風、吹雪、低温、雪の中でのラッセルと、この縦走は命がけな縦走である、怪我や体調不良は誰もいない厳冬期の知床半島の高山では命取りであり、大変な苦労と神経をすり減らす命を賭けた山登りである。若き青年の青春の記録としては、余りに凄すぎる。

6.北海道中央山脈の縦断

この縦走は北海道中央部の南端襟裳岬から歩き始め、厳冬期の日高山脈を縦走し、そのままトムラウシ、十勝岳の石狩山地を縦走し、大雪山をピストンし、そのまま北見山地に入り縦走し北海道の北端、宗谷岬まで歩くという途方も無い計画である。この縦走は1993年の12月18日に襟裳岬から歩き始め、厳冬の日高山脈に入る。厳冬の日高山脈を単独で縦走するだけでも大変な記録であるが、なお続けて3月5日から石狩山地に入り縦走し、5月1日から北見山地に入り縦走し、5月24日に北海道の北端宗谷岬にたどり着くという大縦走を完成する。実に5ヶ月と6日と云うロングランの縦走なので何回か食料調達の為に里に下りている。又結婚した妻がいかに心配しているかを思い悩んでもいる。

北海道の旅でこれほど壮大で嶮しく、そして厳しい旅が在ろうか。今まで思いついた人は居たかも知れないが、実行まで考えた人はいない。この旅は自分の青春、人生を賭けるような凄みがある。この山旅に出る前に志水哲也はこう言っている。

「僕は普通のサラリーマンとなり平穏無事に時は流れた。しかし、仕事に生きがいを持つことは、どうやら僕には出来そうに無かった」

「僕は自分を失っていくのが怖くて、こんな事をやっていて良いのか、一体何を生きがいにしたら良いのか、山登りだろうか、仕事だろうか、結婚生活だろうか、いっそのこと総てを断ち切って何かに没頭してみたいと思った」。こうして一大決心をして志水哲也はこの大冒険に挑んだ。

この大冒険を志水哲也は「果てしなき山稜」となずけ、一冊の本として1995年に出版しているが、志水哲也30歳、人生の曲がり角である。現在40歳の彼は山のエキスパートとして生活しているのであろう。今年雑誌で彼の元気な存在を確認でき大変嬉しかった。もう今までの様な山登りは出来ないであろうが、思いつめて山に向かう傾向のある人だけに心配もあるが、これからも元気に活躍して欲しい。

7.おわりに

2冊の本だけで志水哲也について書いてみたが、2冊とも良く纏まった本であり、志水哲也の登山と心の軌道がよく書かれている大変素晴らしい本である。この様な登山家が現代に居た事は私には大変感動を与えてくれた。ヨーロッパ、ヒマラヤと向かう成金登山全盛時代に、日本の山に集中し新しい登山スタイルで、考えも及ばない素晴らしい登山記録を残し、人に感動を与えることは中々出来ない事である。

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