尾瀬の自然保護と武田久吉博士

秋の尾瀬ヶ原

もくじ

1.はじめに

尾瀬の話になると、一般的に長蔵小屋を建てた平野長蔵氏が主役になりがちである。尾瀬の素晴らしさを世に知らせ、その真価を伝え、尾瀬のダム化を防止し、又国立公園の指定、等に付いては、武田久吉博士の存在と努力に負うところが多大であり、武田久吉博士なかりせば尾瀬はダム化され、貯水池になっていたかもしれない。

私が何としても尾瀬と武田久吉博士との歴史を書こうと思ったきっかけは、長野県松本市に生まれで、昭和の初めに多くの山岳名著を世に送り出した梓書房社長だった、岡茂雄氏の著書「閑居漫筆」(1986年6月発刊)を昨年読んでからである。この本の中には岡氏が関係者から聞き、調査した平野家と武田久吉博士との一般に語られていない重要な事実が書かれていたからである。

「草加山の会」創立当時の原点と言われる「尾瀬」への一つの認識として、この文章を読んで頂ければ幸いです。 この問題を書くに当たり資料としての古書、新書を買い集めていたが、必要な資料もほぼ集まったので、この辺りで纏めてみようと思い立ち書くこととした。

武田久吉博士

武田久吉博士は植物学教授として北大、京大の教壇に立ち大正、昭和と活躍し、かつ日本山岳会会長まで歴任した登山家であり、また高山植物の大家でもあるので、高山植物に関する著作も多い。また幕末時代イギリスの公使パークスの通訳として、高杉晋作や西郷隆盛等に会い、幕末の志士達にも信頼され、のちに東南アジアの大使を歴任しイギリスで、「サー」の称号を頂いた程の、日本の歴史に残る偉大な外交官「アーネスト、サトウ」を父に持つ運命を背負っている。「サトウ」という名前は何か日本人の様に感じるが完全なイギリス人であり、武田久吉博士の風貌は正に外国人である。この為武田久吉博士の事を書くとなると多くの資料、特に「アーネスト、サトウ」関係の物も必要となる。「アーネスト、サトウ」も登山好きで日本の多くの山々を登っており、明治14年に日本で始めて北アルプスを含めた旅行ガイドブック「日本旅行案内記」を発行している。

2.武田久吉博士の生い立ち

イギリスの外交官、アーネスト、サトウを父とし、日本人武田兼を母として明治16年3月2日東京市麹町に武田家の次男として誕生した。サトウは武田兼を正式な妻としては入籍しておらず、サトウは一生独身を通した。外交官として世界を飛び回っていたサトウは、家庭に居たことは余り無かった様だが三人の子供をもうけ、経済的には完全に面倒を見ていてことが、手紙のやり取りなどでも良く判る。久吉は中学時代から植物学に目覚め高山植物に興味を抱き、日光や八ヶ岳などに植物採集登山をしており、日本山岳会の創立会員でもある。

明治42年イギリスに父サトウの招きで留学し、ロンドン皇立理工科大学を卒業し、45年には皇立キュー植物園にて植物研究をし、本格的に植物学を学ぶ。この時がサトウと久吉が親子として最も接触した時であろう。帰国後は理学博士として日本の旧帝国大学であった、北大、京大などで教壇に立ち、植物学の普及に努めた。

3.尾瀬と長蔵氏との出会い

日本山岳会の会報「山岳」創刊号(明治39年4月発刊)に武田久吉は「尾瀬紀行」と題し、尾瀬の素晴らしさと全貌を報告している。 この報告によれば明治38年7月に初めて尾瀬を訪れており、日光から金精峠を越え尾瀬に入り尾瀬ヶ原、尾瀬沼と一巡して、高山植物、景色の素晴らしさを日本で始めて詳細に報告している。時に久吉22歳の夏である。

尾瀬の主と言われる長蔵は明治4年8月生まれで、20歳から尾瀬の開発に努力し、大正4年に現在の場所に長蔵小屋を建て、養魚を始め、山小屋としても開業した。尾瀬を愛し自然保護に努力したが、大正13年尾瀬のダム化計画が浮上し、自分の力では反対するのは無理と判断し、高名で中央にも交渉力を持つ武田久吉博士を訪ね、尾瀬の保護に協力してくれるよう、再三上京しお願いしている。こうして長蔵氏と武田久吉博士が初めて会ったのは大正13年である。元々植物学者として尾瀬を愛しておられた博士は、直ちに長蔵氏と尾瀬に赴き、改めて尾瀬の調査を開始した。以来長蔵氏は武田博士と供に尾瀬の自然保護と開拓に努め、登山者の便にも努めた。自然が豊富でまだ貧しかった昭和の初めに、自然保護など日本人はまだ考えなかった時代、自然保護の大切さを学生や政府に説き尾瀬の保護に尽くされた武田博士は、日本で最も尾瀬を愛された人であると、教え子達から慕われている。

4.武田博士の御霊の行方

これ以降の内容は岡茂雄氏の「閑居漫筆」によるものである。或る大新聞に武田博士が記者に「骨を尾瀬に埋めるつもりだ」と語った記事が出た。 岡氏はこの件を武田博士に尋ねたところ、「長蔵が僕の骨の半分は尾瀬に埋めてくれと言ったので、僕は望むところだと約束した。」と言われ、「息子の長英も勿論この消息は知っているとも言われた。」と書いている。長蔵氏は昭和5年に亡くなっているので、この時点では勿論長蔵氏は居ないが、武田博士と平野家は、尾瀬を介して相当な親縁関係にあったことはいがめない事実であった。この為平野長英氏は武田博士落命のおりは、直ちに駆けつけ通夜にも、火葬場にもお供している。武田博士の直子夫人は博士の御遺志は滞りなく運べるものと何の疑念も無く、親交のあった長蔵氏の尾瀬の墓の脇に埋葬できるものと思っていた。

ところが三ヶ月ほどして平野長英氏から、反対する者が居るのでという理由で武田博士の埋葬を直子夫人に断ってきた。このため五年間も武田博士の御霊は行き先を失い夫人の元に留まり、やがて武田家とご縁のあった日光の浄光寺に分骨は納骨された。浄光寺は一度焼失したが、父君アーネスト、サトウが新たに建立し寄進された、武田家とは縁の深いお寺であり、武田博士は子供の頃毎年一家でこのお寺で過ごされたと言う。 武田博士とは親交浅からぬ岡氏は「反対者は誰であったか、また理由は何であったかは、今更詮索のようはないが、武田博士なくしては今の尾瀬はあり得なかった。また尾瀬あってこその今の平野家である位のことに、考え及ばなかったのであろうか。」とその怒りを著書の中に書き残している。

5.おわりに

武田久吉博士は昭和47年6月、行年89歳でお亡くなりになった。亡くなられてから既に32年が過ぎ、武田久吉博士を知る人も少なくなり誠に残念である。

私が高山植物を勉強しようと思い最初に買った本は、武田久吉博士の著書「原色日本高山植物図鑑」(昭和36年第3版発刊)である。箱入りのしっかりした本なので今でも手元にあるが、中は赤鉛筆であちこちに線が引かれよく勉強したことが思い出される。武田博士亡き後は、尾瀬と言えば長蔵氏苦心の長蔵小屋が中心となり、息子長英氏を中心に長蔵小屋は繁栄に酔いしれていたが、吹雪の尾瀬で長英氏は突然息子長靖さんを亡くしてしまう。現在は長靖さんの未亡人が経営の全てをになっているのであろうが、皆さん新聞テレビでご存知の通り、小屋の建て直し時に出た廃棄物を小屋の下、周囲などに埋めてしまい国立公園内での廃棄物処理違反として、大きな話題となった。

武田久吉博士に対する恩義を忘れた態度、廃棄物処理に見る、世間を欺いた行為、長英氏の人格を問われてしかるべきであろう。いかにも尾瀬を大切にし、愛しているかのごとき印象を世間に与え、その裏ではこのような裏切りが出来る長英氏に対し、小屋で働く従業員が廃棄物処理に対し内?告発をしたのもうなずける。 尾瀬の主である平野家としては、本来長蔵氏の尾瀬に賭ける情熱と、それを支えた武田久吉博士の努力を後世に伝え、その遺志を継ぎ尾瀬の自然を大切に守るべき立場であったはずである。それを忘れ小屋の経営、金儲けのみにはしったことが大きな間違いであったと思う。尾瀬という美しい自然の中で長蔵氏と武田久吉博士が築いた、尾瀬を守る美しい友情がこの様な事で傷付けられた事は、真に残念である。尾瀬観光では地元の多くの人々が潤っているはずである。バスハイクの折、一つでも武田久吉博士の事跡が出ている物を見つけたいものである。

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