新田次郎「槍ヶ岳開山」の「うそ」と真実

もくじ

1.はじめに

新田次郎氏の小説「槍ヶ岳開山」は私も読んだが、大変よく書かれてはいるが、その内容は史実と異なる事を知っておく必要がある。この小説が史実であると勘違いしている人も多く、注意が必要である。既に読まれた方、今後読まれる方に参考として、いかに「うそと真実」を書いてみます。

うその1

播隆は農民の子として生まれ14歳で冨山の米問屋の丁稚となり、17年間働き手代とし番頭さんと呼ばれるまでになった。

真 実

播隆上人は大山町河内と云う山奥の中村家に生まれ、中村家は「一向宗」の河内道場として、村人が集まり念仏を唱える場所であり、ここで15歳まで過ごした。この様に小さな山村のお寺のような家に生まれ、古老の伝えるところでは大変勉強熱心な子供で若い頃より出家し僧侶になる事を望み、生まれながらに仏門の環境にあった。

新田次郎が書いた小説 播隆上人の研究論文

注)昭和38年に穂刈三寿氏が出版した「槍ヶ岳開山、播隆」を読み新田次郎氏は小説「槍ヶ岳開山」を書き、昭和43年に出版した。

上記の本は、先の昭和38年「槍ヶ岳山荘40周年記念」に出版本された本に対し、その後発見された播隆上人の遺品や関係資料を基に書かれた研究書である。 「真実」の内容は穂刈さん親子の労作「槍ヶ岳開山、播隆」の研究書の資料の内容に基き書きました。

うその2

小説では農民一揆に加担し、あやまって妻を槍で突き殺してしまう。以後故郷を捨て僧衣をまとった。

真 実

弟子の書いた播隆上人の行状記によれば、16歳で和泉国(大阪)の宝泉寺の見仏上人に弟子入りし、出家修行をする。故に生涯妻を娶らず、ましてや一向一揆に参加したり、妻殺しなどした事も無い。上人の文章には深い学識と教養があり、若い頃より寺院で勉学に励んだことが明らかに伺える。

うその3

小説では笠が岳の再興は、飛騨の本覚寺の和尚さんの依頼で播隆上人が行なった事になっている。

真 実

播隆上人は飛騨には何回か修行で訪れ、円空上人が開山した笠が岳に自ら登り、富士山、立山、白山の日本三大霊山を眺め、この素晴らしい名山に道も無く荒れ果てている事を嘆き、自らの発案で本覚寺の和尚さんと、村人の協力を得て笠が岳の再興は行われたのである。このことは播隆上人が書き残した「加多嶽再興記」に詳細に書かれている。その内容を以下の実筆資料に示す。

播隆上人実筆の「加多嶽再興記」とその内容。

うその4

小説では笠が岳再興の実績により播隆上人が槍ヶ岳開山の依頼を受け、槍ヶ岳開山を行なった事になっている。

真 実

笠が岳に登った折、雲表に浮かぶ槍ヶ岳の峻峰をみて、僧侶とし、登山者としてその登頂と開山の夢を抱き、飛騨の山村の人々と行った笠が岳再興とは異なった地域である、信州松本の小倉村の名主に協力を依頼し、努力の末に槍ヶ岳の初登山をし、仏像を安置し開山し目的を達したが、多くの人が登れるように、苦労してお金を集め、岩峰に鉄鎖をつける。

「槍ヶ岳略縁起」の版木刷り物:槍ヶ岳の鉄鎖の基金出費信者に配布された。

5.おわりに

大きな処は以上ですが、小説では妻殺しと言う影を背負った僧侶として全編が描かれており、実像としての理性的で忍耐力のある教養と情熱を持った正義の人「播隆上人」の姿がゆがめられている事が大変残念です。播隆上人は葛飾の行徳村の寺で修行し「和上」と言う高い位を54才の時に得ており、人を殺した過去ある人には「和上」と言う高い位は有りえない事実である。

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