山と文学について 小説「剱岳・点の記」と映画の真実

1.はじめに

昭和52年発行の新田次郎氏の小説「剣岳・点の記」は、山の歴史を誤って伝える事になりはしないかと言う疑問が早くから出ておりました。

平成22年の映画『剣岳・点の記』はこの小説を原作として製作された映画です。小説を基に製作された映画には事実と異なる多くの出来事がドラマを盛り上げる為に盛り込まれております。我々登山者としては登山の歴史の真実を知っておく事が必要と思い、今回この疑問について関係資料に書かれた事実を基に真実を追ってみたいと思います。

2.参考資料

  1. 小説「剣岳・点の記」新田次郎 昭和52年8月発行 文芸春秋社
  2. もうひとつの剣岳点の記 2009年7月発行 山と渓谷社
  3. 山案内人 宇治長次郎 五十嶋一晃 2009年8月発行 桂書房
  4. 芦くら寺物語 鷹沢のり子 2001年6月発行 山と渓谷社
  5. 立山黒部物語 広瀬 誠 明記なし 立山黒部貫光協会
  6. 山岳霊場巡礼 久保田展弘 昭和60年2月発行 新潮社
  7. 「山岳」創刊号、第4年号 明治39年、明治42年 山岳会
  8. 立山(短歌集) 柳瀬留治 昭和18年11月 短歌草原社

昭和52年初版小説「剣岳・点の記」  資料2009年発行、山と渓谷社

資料2009年発行 桂書房    明治39年発行 山岳創刊号

3.「剣岳の点の記」についての真実

明治40年7月13日(小説では12日)に剣岳は近代に始めて登頂され測量の準備がなされ、7月28日(小説では27日)に測量用に三角点が建てられました。しかし三角点建設用の大きく重い標石を山頂に担ぎ上げる事が出来ず、三等三角点の設置を諦め、木の柱を代用にした測標を設置し測量を行う四等三角点しか設置できなかった。{この為に明治時代の当時から最近まで「剣岳の点の記」は存在しなかった。

*理由は「点の記」が書かれ記録が残されるのは三等三角点までである。実際に剣岳に三等三角点が造られ「点の記」が書かれたのは、2004年8月24日で建設者は伊藤純一氏である。故に小説が書かれた昭和52年には剣岳の「点の記」は存在しなかった。新田次郎氏は小説を理解しやすくするために現実には存在しない「点の記」を小説名に付けたのは中々のアイディアマンであると言えます。小説や映画のドラマと真実に対する。

「第一の疑問」

山岳会(後の日本山岳会)と、陸地測量部(後の国土地理院)との「剣岳初登頂争い」は有ったのか?

1) ドラマを盛り上げる為に小説や映画では剣岳において「山岳会」と「陸地測量部」との初登山争いが重要なテーマとして描かれていますが、現実にはこうした初登山争いの事実は全く無かった。

2)山岳会の設立は明治38年10月14日で、小島烏水の元に7人の発起人により設立された。烏水が会長となり明治39年4月に会報「山岳」の創刊号がやっと発行され、この中に「山岳会設立の主旨書」が掲載され、日付けは明治39年4月5日である。本格的な活動はこの頃から始まっており、明治39年の夏に当時未登とされた剣岳を登る下見調査が行われたように描かれているが、スタートしたばかりで予算もない山岳会では下見など出来ない状態であった。

3)また主人公の柴崎氏に対し小説では度々登場する「小島烏水」は銀行員であり、会う必要も機会も無くこの当時に会った記録はない。もちろん小島烏水は当時の剣岳には登頂していない。小説を面白くする為に仕組んだ内容ですが、真実を曲げて小説で表す事には抵抗を感じます。この件は小説の発売当初から日本山岳会も国土地理院(旧陸地測量部)でも歴史を誤認させると問題視していた

「第二の疑問」

小説と映画では「柴崎芳太郎」氏と山案内人「宇治長次郎」の関係は大変良く描かれてるが、現実には関係は良くなかった。

1) 小説や映画では柴崎氏と宇治長次郎は大変よく理解しあっているが、剣岳の測量公式記録には長次郎の名前は記載されていないほど、柴崎氏は長次郎を無視していた事が記録や周囲の証言でわかります。

2)柴崎氏は終生、「長次郎」と言う人は知らないと言い切っている。

3)初めの登頂である明治40年7月13日の記録には長次郎の名はないが、1名氏名不詳、途中脱落とあり此れが長次郎であろう。どうしてか名前が消されています。また記録では柴崎氏の登頂日、7月28日に長次郎は同行していない事のなっていますが、事実は同行して四等三角点設置の為の3mの自然木を背負って登っています

4) 柴崎氏は「山案内人の言うことは信用するな」と部下や周辺の人に云っており、山案内人を信用していなかった。(山案内人は単なる荷物運びの人夫で、登山の手助け程度にしか考えていなかった。)

5)長次郎達を雇った理由:立山、剣岳登山の案内人の本家は「芦くら寺」部落の山案内人達ですが、宗教上で剣岳は登ってはいけない山であり、危険が多いとの事で案内を拒否します。仕方なく隣村の大山村和田の集落に頼み、長次郎以下の山案内人を雇う事と為った。

6) 実際に剣岳は長次郎とその弟子たちの協力が無ければ登頂は出来ず、四等三角点さえ造れなかった事は周囲の人々からの報告や自分の目で見て柴崎氏は十分に分かっていたはずです。(人夫達の中には剣岳に関係する仕事が宗教的に怖くなり途中で逃げ出した者もいた。)

以上の点を考慮すると、残念ながらどう考えても柴崎氏は長次郎に対し良い感情を持っていたとはとても思えない。測量作業の為に長い間テントで共に生活し、剣岳に苦労して共に登っていながら、そんな人は知らないと言い切る、柴崎氏の気持ちが理解できず、映画のようなお互いを理解し合えるような関係があったとはとても考えられません。

「第三の疑問」

柴崎氏の立山、剣岳周辺の三角点建設と測量作業記録

1) 宇治長次郎は明治40年に陸軍参謀本部陸地測量部(現国土地理院)三角科第四班付陸地測量手・柴崎芳太郎に雇われて立山、剣岳周辺の測量作業に従事した。この事実は記録により明らかである。しかし長次郎がどの様な作業を何時何所で行ったかは全く記録はない。ゆえに公式記録には長次郎が剣岳に登った記録はない

2) 柴崎氏の立山、剣岳周辺の測量作業行動記録は以下の通りです。

* 明治40年4月24日に測夫と柴崎氏は東京をたち富山に入る

*5月16日にキワラ谷上部の気和平から三角点撰点と測量作業が開始されています。

* 松尾峠、立山温泉、黒部別山周辺、馬場島、奥大日岳、別山造標、など26点の三角点の要目が記されている。こうした作業は10月12日まで行われている。

* 小説では7月12日に剣岳の第一回登頂が行われたと記されているが、国土地理院の原簿には剣岳の撰点日は明治40年7月13日と記載されている。撰点者は柴崎芳太郎とある。

*測量作業行動公式記録を見ると第二回目の7月28日の登頂は記録されていない。(公式には13日に測量された事になる)

* 10月12日の剣岳西面の西大谷山三角点の観測作業を持って、測量作業は全てを完了している。

3)上記の記録から考えれば柴崎氏は明治40年しか測量作業をしていない、小説や映画で描かれているような柴崎氏と長次郎の前年明治39年の偵察山行は行なわれてはいないし、雪山で吹雪や雪崩に会うことも無い。また長次郎は剣岳の第一回登頂日までは、他の三角点測量作業に加わり働いていたので明治40年でも下見はできなかった。

剣岳の測量期間は7月中旬の夏山であり、10月12日には測量作業を完了しており、この様な剣岳での雪山の測量作業は有り得なかった 陸地測量部は前年の明治39年にも剣岳の登頂を目差しましたが、登頂できず、翌年の明治40年の柴崎氏に全てが託され、柴崎氏にとっては大きな負担であった事は事実と思います。

4)また記録によれば明治39年に長次郎は陸地測量手、佐々木戸次郎氏に従い5月から10月まで黒部源流の山々の測量作業に従事しているので、たとえ柴崎氏が居たとしても明治39年には剣岳の偵察下見山行に同行することは出来なかったのも事実です 。以上の事実を考慮すると、小説や映画で描かれている柴崎氏と長次郎の登頂前年の明治39年の下見偵察山行は行われていない事が分かる。秋の山を歩き、冬が近ずき雪山の偵察も有るが、ドラマを盛り上げる為の現実とは異なる単なる架空のシーンでしかないと言えます。 また剣岳の測量登山は7月13日に行われており、完全な夏山であり吹雪にあったり、映画のような全層雪崩が起こる事はない。あったとしても雪渓の一部が崩れブロック雪崩程度であろう。雪山や秋山のシーンが多く出てくるが、現実にはこの様な事はなかった。剣岳以外の測量では5月から開始しているので、残雪の雪山の中で作業が行われた事は事実です。(また雪崩のシーンは新潟の雪崩実験研究所で撮影した物です。)

「第四の疑問」

柴崎氏と長次郎の剣岳登頂と三角点設置作業について

1)剣岳の山頂への公式登頂者記録は全く残っておらず、山頂へいった人々や周囲の人の記憶は各々相違し判断に苦しむが、残っている記録と周囲の関係記録(人夫への給金支払い名簿等)から第一回の登頂日は7月13日であり、柴崎氏が新聞記者に語った富山日報の剣岳登頂の新聞記事によれば、メンバーは測夫:生田 信、人夫:山口 久右衛門、宮本 金作、南川 吉次郎、氏名不詳途中脱落者1名の5人である。この氏名不詳なる人物が後に宇治長次郎である事が判明します。

明治40年8月5日~6日の富山日報新聞の記事

2)登山ルートは現在長次郎谷と言われている雪渓を登りつめ、稜線のコルに出てから山頂に登るルートであり、下山も同じルートを使用している。(現在このコルは長次郎のコルと呼ばれている。

長次郎谷

3)登山において長次郎は山頂直下まで案内はしたが、山頂には登らなかった。この事が測夫や柴崎氏の感情を害し、長次郎に対し悪感情をもたらし氏名不詳で途中脱落となってしまったと考えられる

4)二回目の登頂は7月28日に行われたと推定されているが記録がなく不明であるが、メンバーは柴崎 芳太郎、測夫:木山 竹吉、人夫:4名と長次郎と考えられ、この時は長次郎が3mほどの自然木を背負い山頂直下まで運んだものと思われる。当時としては大変困難な登山ルートであり、3mの重い自然木を担ぎ上げる力のある人物は長次郎以外居なかった。(他の案内人は立山の宗教登山一般ルートの案内人であった)

5)長治郎のこの努力により何とか四等三角点が設置され、観測作業が出来たことは柴崎氏は知らないはずはない。

6)柴崎氏の富山日報の談話では「測表の柱は4本を接合して六尺位になる柱一本を立てたに過ぎない。この接合せる様にしたのは無論運搬が困難であるからであります。」とあるが、実際は1本の自然木の3mほどある木が測表として使用され、写真も存在します。

7)この写真は測量登山の2年後の明治42年7月24日に吉田孫四 郎が長次郎を案内人として剣岳山頂に登り、同行の日本画家石崎氏が 剣岳山頂で撮影した物である。重要な四等三角点の測表である木の柱さえ柴崎氏の言っている事は事実と異なっている。

明治42年7月24日に日本画家石崎氏が写した剣岳山頂 明治42年に吉田孫四郎と数名が長次郎を雇い、山岳会が趣味の登山として初めて剣岳の山頂に立つが、この記録の詳細は会報「山岳」の掲載された。この中で長次郎が一人で自然木を担ぎ上げ、四等三角点を作ったこと等を吉田孫四郎に話した事で事実が判明してくる。長次郎と宮本金作は剣岳に登った事を公言しているが、文献上で長次郎が柴崎芳太郎に従い剣岳の測量登山に従事した事がはじめて公開され記録された

8)長次郎の片腕たる宮本金作は柴崎芳太郎は1度も山頂に登っていないと云っている事も問題点である。実に謎の多い剣岳測量登山である。(公式記録を柴崎氏が書かなかった事が事実をこじらせてしまった。)

「第5の疑問」

何故長次郎は山頂を踏まなかったのか? 霊山立山の開山は伝説では701年とされているが、実際には平安時初期である。伝説で古代から霊山としてあがめられていた立山は、江戸時代には立山信仰が盛んとなり、特に剣岳は神聖な山であり地獄の針の山として登ってはいけない山となっていた。登るとタタリがあると崇め畏れられていた。この意識は特に芦くら寺の立山衆徒の間に強く存在していたが、長次郎が育った和田集落や他の山麓の集落にも浸透していた。芦くら寺と和田の集落は僅か1.7Kmしか離れておらず、長次郎には剣岳は神聖な山であり、地獄の針の山でであり、忌まわしい記憶があったであろうと考えられます。

立山曼荼羅図

長次郎は大変信心深い人で殺生を嫌い、猟や岩魚釣りもせず、山岳会の人が岩魚釣りをやらせても大変下手だったと書かれている。こうした信心深い長次郎にとって山を案内はするが、山頂を足で踏む事などは宗教上とても出来無い事であったと思います。日本三大霊山の一つである立山の信仰は大変歴史があり、立山信仰は全国規模で行われており、江戸時代、明治期を通して大変盛んであった。

芦くら寺の大岩に彫られた「不動明王」魔崖佛

(この不動明王の剣から剣岳と山名が付けられたと云われている) こうした信仰、逸話、伝説が麓の村人達には現在の科学時代に育った我々が考える以上に、影響を与えていた事は十分に理解できる。また山仕事を生業としていた登山者ではない長次郎にとって山頂に立つ事は余り意味が無かったであろう。しかしこの為に測夫の生田氏は長次郎抜きで稜線において山頂直下の岩場で苦労したので悪感情を抱き、柴崎芳太郎に長次郎はけしからんと報告した可能性がある。

「第6の疑問」

柴崎芳太郎と長次郎は如何なる人物であったのか

1)柴崎芳太郎氏について

柴崎芳太郎にとって剣岳に三等三角点を建設できなかった事は、大いなる心残りであろう。四等三角点では「点の記」の記録が残らないので、何としても三等三角点を建設したかったであろう。この為には人夫の働きにも不満があったかもしれないが、わずか5~6人での必死の登頂をした人達の名前を覚えていないとか、テントの中で五ヶ月も12~3人で過していながら、「人夫頭」的存在の「長次郎」の名前を知らないと言い切る柴崎氏の気持ちは理解できません。柴崎氏が余りにも真実を公表しないので、真実の登頂日やメンバーの公式記録が無く、実に不自然な剣岳の三角点設置登山となってしまった事は誠に残念です。

また任務を終えた後に立山温泉に下山するが、県の役人が良い部屋を独占し、一般宿泊客も多く部屋がないと断られる。県の役人や宿の主人に交渉するが、行灯部屋に12人が詰め込まれる事となり、国の役人である柴崎氏は大いに怒り、大変気分を害したようである。この為に山頂で発見された錫杖の頭や剣は考古学的には本来富山県の物ですが、終生自宅に置き富山県には返さなかった。現在はご子息が山頂で発見された剣と錫杖の頭を富山県に寄贈し富山で展示されています 柴崎氏は山岳会や多くの人から真実を公表するように言われているが、終生言葉を濁し登山日やメンバーに関して公表しなかった。この為に測夫や同行の人夫からの話がもれ伝わり、つじつまの合わない所もある。もしかしたら山頂に登った宮本金作の言うように、柴崎芳太郎氏は剣岳の山頂に登っていないのではないかと思う事も不自然ではない。柴崎氏にとって立山温泉の出来事は実に気分の悪い出来事であり、富山における測量登山は良い思い出として残らなかったのかもしれない

2)宇治長次郎について

宇治長次郎はこの測量登山後は最も優秀な山案内人として、登山史上で大活躍をする事と為る。立山の宇治長次郎はよく上高地の山案内人上条嘉門次と共に日本における最も優れた山案内人であると言われている。人格、体力、岩を登る能力、山を見て判断するルートファインディング能力、リーダーとしての素質、などあらゆる点で登山者から信頼された。 近代登山が盛んになると立山にも山案内人組合が芦くら寺と大山村集落に出来るが、大山村の「大山登山案内組合」は宇治長次郎が組合頭となり、「立山案内人組合」は佐伯平蔵が組合頭となっています。長次郎谷、平蔵谷の名を残したこの二人の名山案内人は大変仲の良い友人であった。

長次郎と平蔵

長次郎は日本山岳会初期の会員の山案内を多く行っているが、初遡行、初縦走、初登攀など沢山の登山者の山案内をしています。中でも冠松次郎との黒部川の初遡行は登山史に輝くものである。柴崎芳太郎氏との立山、剣岳の測量登山も後年に長次郎が山案内人として此れほど有名にならなければ、余り関心は無かったかもしれない。

5.おわりに

柳瀬留治の短歌集『立山』に長次郎を詠った短歌が2首あります。

測量登山後約30年経ったある山案内中、平の小屋での出来事を歌人 「柳瀬留治」が詠ったものである 「山のぬし宇治長次郎膝つき出し語りつずくる剣処女行」 「誇りなくえみさえ浮かべぽつりぽつり迫らず語る宇治長次郎」 この短歌を見ると長次郎は剣岳の登山には多くの思い出を持っていた事が感じられる。自分が案内して測量隊を山頂まで招いた事が胸の中に鮮烈に思い出されるのであろう 色々な山の本から判断しても、誰一人として長次郎を非難した登山家はいない、宇治長次郎ほど多くの登山家に愛され、慕われた山案内人は居ないであろう。多くの登山家が長次郎の人格と山を見る目の確かさ、登山技術を賞賛して書物に書き残しています。

江戸時代の立山絵図

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