「日本百名山」について

1.日本百名山とは中高年登山者のバイブルとなっている

かって日本には多くの霊山があり、江戸時代から日本人が宗教登山として、また遊山として山登りを楽しんでいた。日本百名山の後書きに深田久弥氏も書いているが、中でも江戸時代文化九年に出版された谷文兆の「日本名山図会」はそれを代表し、90座の名山が描かれており、現代の「日本百名山」も26座ほど含。他に寛政年間に出版された橘 南渓の「東遊記」にも名山論あり9座の名山を書き出している。

   

日本名山図会より「立山」

しかし、これら江戸時代の名山は現在の「日本百名山」に取って変わられた。「日本百名山」とは作家「深田久弥」氏個人の「名山に対する考え方」を元に決定され、深田久弥氏が日本の名山として山岳雑誌に連載したもので、日本全土に対し名山を決めたので、絶対値には偏りがある。

それでは「日本百名山」を決定し書物として発行した深田久弥氏とは如何なる人物であろうか。深田久弥氏が書いた本を通して人物像を追ってみます。

2.深田久弥とは

2-1.生い立ち

明治36年(1903年)石川県加賀市に6人兄弟の長男として生まれ、家業は紙を商い印刷業も営んでおり、作家「深田久弥」の生家に相応しい。

大正11年(1922年)19歳で東京の第一高等学校入学。文学と山に熱中し、同人雑誌などに投稿して山にも登っていた。

昭和1年(1926年)23歳で1年遅れて東京帝国大学哲学科入学。ここでも山と文学に明け暮れ、特に文学では才能を認められ「改造社」の編集部に採用され、学生でありながらサラリーマンとなる。

2-2.文学者としての道を歩む

昭和5年(1930年)27歳で大学を中退し文学を目指し、改造社も退社、作品を投稿していた北畠八穂さんと生活をともにし、貧乏生活に入る。(昭和15年入籍) 以後深田久弥の小説は新鮮な感覚の作品として、井伏鱒二、川端康成などの先輩に評価され賞賛されるようになり、作家として自信を深めていく。

小説「津軽の野ずら」見開き

*昭和10年(1935年):に出版した「津軽の野ずら」が大評判となる。しかしこの作品が後世まで深田久弥を悩ませる元となる。

*戦後「津軽の野ずら」と云う小説は北畠八穂さんが書いたものを、深田久弥の名前で出版されたとの噂が出る。これについて深田久弥は一言も弁明してはいない。親しい友人の考えでは競作の可能性ありと言っている。戦後、北畠さんは深田久弥と別れた後に「津軽の野ずら」は自分の作品だと言っている。誠実な深田さん唯一つのスキャンダルである。(この事があってか深田さんは戦後には小説を書かなくなるが、自分に実に誠実な人だと考えられる。)

2-3.流行作家の仲間入りと山の本

昭和9年(1934年)それまで発表した山の文章を「わが山山」と題し山の本を始めて出版する。以後山の本は「山岳展望」「山の幸」「山頂山麓」「山岳紀行」の4冊を戦前に出版している。これらの本はいずれも後年の「日本百名山」の文章形態が出ており、一つ一つの山を丁寧に描いている。深田さんの本は随想系の物はあまり無く、もっぱら山に登った感想や歴史など、対象の山その物を人物を描く様に描くことを目指している様だ 。

「わが山山」の初版本

昭和11年(1936年)以降「鎌倉婦人」「知と愛」「春蘭」「蒼猪」などを出版し流行作家の仲間入りをする。作品は良く売れ、中には教科書に採用された作品もあった。(戦前には小説を19冊出版する。(戦前は作家として鎌倉に住み、小林秀雄や今日出海なを誘い、スキーや山登りを行い、健康的な作家として活躍したが、周囲の作家は迷惑がっている。)

昭和12年初版本「鎌倉婦人」

昭和16年(1941年)38歳で1高時代見初めた「木庭志げ子」さんと再会、人生の問題点を抱える。(道ならぬ恋となり、カリエスを病む北畠八穂さん大いに怒る。)

昭和17年、志げ子さん「森太郎」を出産し北畠八穂さんとトラブルとなる。

3.戦後の活動と活躍

昭和20年(1945年)中国戦線より復員する。

昭和22年(1947年)44歳、志げ子夫人と婚姻届を提出し正式に結婚生活に入る。志げ子夫人と結婚後は故郷の石川県に戻り、文化人として質素な生活に入る。

昭和45年に出版された「きたぐに」と言う本に当時の生活ぶりが書かれている。本人もこの本の中で描いているとおり、深田さんにとって鎌倉時代を思うとまさに作家として都落ちの感が深い時代である。 昭和26年から山登りも再開し「おちこちの山」を出版する。

昭和26年初版本「をちこちの山」

3-1.ヒマラヤの深田として有名になる

昭和27年、フランスの登山隊が人類初の8000m峰「アンナプルナ」の登頂に成功する。この記録を読み大変感動し以後ヒマラヤに熱中し、ヒマラヤノのあらゆる文献を世界の古書店から取り寄せて、読みふける。以後「ヒマラヤの深田」として有名になり、ヒマラヤを目指す多くの登山家が深田さんを訪問し、深田邸は著名な登山家でにぎわうようになる。

4.深田久弥ヒマラヤに

昭和33年(1958年)、自らがヒマラヤに行かなければ人生が終わらないと思うようになり、医者「古原和美」、写真家「風見武秀」、画家「山川勇一郎」、作家「深田久弥」と言う芸術家集団で平均年齢50歳以上と言う過去に例が無いロートル登山隊がヒマラヤに入る。

この深田ヒマラヤ隊の最大功績は山に登ることではなく、個人で100万円以下でヒマラヤに行ける事を実証した事であろう。昭和30年代の初めは8000m峰が登りつくされたが、まだ8000mに近い未踏の高峰があり、これらの山を大規模な遠征方式でアタックするので、多くの登攀隊員と物資が必要となり数千万円の費用がかかり、寄付金や多くのスポンサー無くしてヒマラヤには行けなかった。こうした中でわずか4人の年取った隊員のみで個人的にヒマラヤに行くことなど誰も考えもしなかった。この隊の命名には色々議論があったが「ジュガール、ヒマラヤ探査隊」となずけられた。

5.「日本百名山」の誕生

昭和34年(1959年)ヒマラヤから帰り、改めて日本の山の美しさを思い、かねてより考えていた「日本百名山」を書くことを思い立ち、山岳雑誌「山と高原」に「日本百名山」を連載し、2年半ほど掛けて完成する。

戦前に深田さんは登山を始めてからかなり初期に「日本百名山」を書こうと考えたようで、昭和15年には山岳雑誌「山小屋」に日本百名山を20山ほど連載しやめた事がある。なぜやめたのかは定かではないが、おそらくまだ多くの山を登っていなかったので、日本の百名山を絞り切れなかったのだと考えられる。なぜならば昭和34年に山岳雑誌「山と高原」に連載し始めた時も、まだ百名山全てには登っていなかったので、心に描いた百名山の幾つかを登りながら原稿を書いていた事が知られている。

昭和15年発行の山岳雑誌「山小屋」の4月、5月号に掲載されたもの

昭和15年に「山小屋」99号に掲載された「日本百名山」の記事内容
昭和39年初版本「日本百名山」の箱写真と表紙

昭昭和34年の山岳雑誌 「山と高原」3月号 「日本百名山」連載の第一回目の記事

5-1.「日本百名山」初版発売、読売文学賞を受賞 

昭和39年(1964年)「日本百名山」刊行。読売文学賞「評論、伝記」の部を受賞する。

これまで文学賞に縁の無かった深田久弥氏にとっては、始めての「文学賞」であり大変喜んだようである 。

5-2.深田久弥氏の「日本百名山」の選定条件

「日本百名山」という本の「後記」には名山の条件を以下の如くに記している。第一は山の品格である。誰が見ても立派な山だと感嘆するものでなければならない。第二に、私は山の歴史を尊重する。昔から人間と深いかかわりを持った山を除外することは出来ない。第三は個性のある山である。個性の顕著なものが注目されるのは芸術作品も同様。付加条件として1500m以上という線を引いた。(筑波山,開聞岳は例外とした)

6.おわりに

昭和46年(1971年)最後の著作に当たる「山頂の想い」を構成して3日後の3月21日、「茅が岳」登山中に深田さんは68歳で黄泉の国へ旅立たれました。2010年、現在生きていれば107歳である。 深田さんが最も力を注いで書き上げた本が「ヒママラヤの高峰」である。それまで集めたヒマラヤの文献を総まとめした本と言って差しつかえ無いと思います。戦後苦しい時期を乗り越え、ヒマラヤの文献に心血を注ぎ、ヒマラヤに行き日本の山の素晴らしさを感じ、「日本百名山」をまとめ、山男として作家として名を残し、多くの人に愛された深田さんは幸であった事と思います。心よりご冥福をお祈りいたします。

遺作となった山頂の想い

昭和48年初版「ヒマラヤの高峰」全3巻と死後発刊された「ネパール・ヒマラヤ」

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