日本近代登山の父「ウオルター、ウエストンさん」

上高地のウオルターウエストン碑

1.はじめに

山登りが好きで日本のアルプスに登った人であれば一度は「ウオルター、ウエストン」の名前は聞いた事があるであろう。ウエストンさんはイギリス人の牧師さんで、明治21年に来日以来、沢山の日本の山に登っている。

この登山記録を「MOUNTAINEERING AND EXPLORATION IN THE JPANESE ALPS」(日本アルプスにおける登山と探検)と題し本にまとめイギリスのロンドンにて明治29年10月に出版し、日本の山岳を世界に紹介してくれた。登山に関しては、イギリスの「アルペンクラブ」会員で、ヨーロッパアルプスも登っている本格的なアルピニストである。

また、日本の登山好きな若者達に、イギリスの「アルペンクラブ」にならい日本にも山岳会を作る事を進め援助し、その設立に助力してくれた。そして明治38年10月、日本で初めての「山岳会」が小島烏水、武田久吉など7人の発起人により設立された。これが現在の[日本山岳会]のスタートである。

ウエストンさんは大変な親日家で明治、大正時代の日本人をこよなく愛してくれた。昭和の初め頃、日本が欧米と関係が悪化した時も幻灯機をかかえ、70歳を越えた高齢にもかかわらずイギリス各地で日本人?素晴しさを講演してくれたほどである。

2.ウエストン祭について

上高地でアルプスの山開きとして「ウエストン祭」がもようされる事を知っている人も多いと思う。

ウエストンさんが77歳の時、喜寿のお祝いとして日本政府が、此れまでの日本の山岳界に対する貢献のお礼として勲四等、瑞宝章を贈った。これを記念し昭和12年8月26日、ウエストンさんがこよなく愛した上高地に胸像のレリーフを建設した。この後太平洋戦争となり、このレリーフもウエストンさんがイギリス人であると云う事で取り壊される危機にあったが、山岳会の有志が東京に持ち帰り保管した。

そして戦後の昭和22年6月14日、ウエストンさんのレリーフが復元され今日に至っているが、これを期にウエストン祭が毎年6月の第一土、日曜日に開かれる様になった。こうして今日「日本アルプスの父」としてウエストンさんは敬われる様になったのである。ウエストンさんのレリーフは上高地のバス停の下流、田代橋を渡り上高地温泉ホテルの前を過ぎるとすぐ左の木陰の中、大きな岩に取り付けられている。一度は見学して頂きたい山の記念碑である。

3.ウオルター、ウエストンとは如何なる人物なのか

ウエストンさんは1862年(江戸時代、文久元年)英国のダービーの町で生まれ、明治16年ケンブリッジ大学を卒業後、神学校に入り明治18年リドレー、ホール神学校を卒業し、教会に入り牧師さんとなる。

明治11年、高校時代すでにヨーロッパ、アルプスを訪れている。明治19年オックスフォード教会の司祭に就任し,この年から兄と本格的に登山活動を開始する。

明治21年宣教師として来日する事となる。時に27歳、来日後神戸を中心に布教活動をすると共に大好きな登山活動も行う。ガイドブックなど無い時代、多くの山岳を登っているが、当時唯一の案内書として外国人に読まれていた本が「HANDBOOK FOR TRAVELLERS IN JAPAN」(日本旅行案内)であった。この本は明治14年に武田久吉(植物学者、登山家)の父であり、幕末時代に英国の通訳として活躍したアーネスト、サトウ(英国人)が友人と共に調査した内容を基に編集、発行したものである。登山好きなアーネスト、サトウは飛騨山脈(北アルプス)については特に詳しく書いたので、登山好きな外国人には大変よく読まれた様である。ウエストンさんもこの本を頼りに北、南アルプス、その他多くの山岳?登り、明治27年帰国する。

明治29年英国ロンドンにて「日本アルプスにおける登山と探検」を出版する。この本の和訳本は昭和8年に出版され、日本の近代登山の古典として現在でも多くの登山者に読まれている。

4.ウエストンさんと日本の山岳界の関わり

ウエストンさん2度目の来日は、エミリー婦人同伴で明治35年6月である。この年、小島烏水(初代日本山岳会会長)が槍ヶ岳に登ったが、その折同行した友人岡野金次郎が「日本アルプスにおける登山と探検」の英文原書を偶然、勤務先であるスタンダード石油社内で見つけ、外国人が既に槍ヶ岳に登っているのを知り驚いて小島烏水に連絡し著者ウエストンさんを捜すと、なんと自分達の住んでいる横浜に居ることが判る。急いで連絡を取り二人でウエストンさんに会いに行く。小島烏水の著書「アルピニストの手記」によれば、この時ウエストンさんは大変喜び、異国での山の同志を暖かく向かえてくれ、日本の山の事、英国の山岳事情、そして山岳会の設立など色々アドバイスしてくれた、時に明治36年である。

ウエストンさんの第二回目の来日は明治35年から明治38年までであるが、主に南アルプスを登っており、鳳凰三山の地蔵岳のオベリスクも明治37年にウエストンさんが初登攀している。英国に帰った後も「山岳会」のことをアドバイスした手紙のやり取りがあり、明治38年10月「山岳会」の設立をみる。

ウエストンさんがいかに日本と日本人を愛してくれていたかが、良く判る事実としてこんな例がある。明治38年帰国後、一年ほどして東京帝国大学教授だった登山好きなチェンバレン氏に出した手紙の中で「妻は元気ですが、困ったことに時々二人とも日本を思い出し、ホームシックにかかっています。いつか日本を訪れ、これを治さなければなりません。」と書いています。

そしてこの思いが実現し第三回目の来日が明治44年12月に始まり大正4年まで続きます。この時も奥さん同伴で多くの山岳を登っている。北アルプスでは、案内人に上条嘉門次を頼んで多くの山岳に登っている。この間多くの日本の登山者と交わり、帰国後も手紙のやり取りをしたり、英国、ヨーロッパに留学した日本の若者(登山者)とも現地で交わり歓迎している。こうして「日本山岳会」の会員との交わりは深くなる。明治43年には日本山岳会の名誉会員となっている。

第二回、第三回の来日で登った登山記録を基に「THE PLAYGROUND OF THE FAR EAST」(極東の散歩道)を大正7年に英国ロンドンにて出版する。ウエストンさんの明治、大正時代の日本人や自然に対する眼差しは何時も優しく、かつ好意に満ちている。今の日本人を見たらウエストンさんがどれほど落胆するか恐ろしい程である。

大正4年に出版された歌人、の中にこんなくだりがある

我々(窪田空穂、他数人)が上高地の旅籠清水屋で夜中、話しに夢中になり大声で話していると、廊下より余り騒がないようにと外国人に注意される。聞けば婦人が熱を出し看護しているとのこと

窪田空穂の著書「日本アルプスへ」

この外国人こそウエストンさんで、その隣室で騒いでいたのが、窪田空穂(歌人)、高村光太郎(彫刻家、詩人、智恵子抄あり)、茨木猪之吉(山岳画家)、鹿子木信員(慶応大,哲学科教授)、他そうそうたるメンバーで、ウエストンさんとも面識ある人も居たので静かにした様だ。

5、ウエストンさんの日本に関する出版物

初めての来日以来、トータル14年間も日本に滞在したウエストンさんは、多くの日本に関する文書を書いている。いずれの著書も愛してやまなかった明治時代、未開の日本が持つ風俗、文化、礼儀正しさ、人なつこさなど、日本人の美徳を書いてくれている。こうした努力は英国地理学協会より未開地の探検をした人に与えられる「バックグラウンド賞」を、日本政府からは日英両国の親善と山岳界に対する貢献に対し勲四等、瑞宝章を与えられている。著書としては以下のものがある。

  1. 明治29年出版:「日本アルプスにおける登山と探検」(THE JAPAN ALPS)
  2. 大正7年出版:「極東の遊歩道」(THE PLAYGROUND OF ........)
  3. 大正14年出版:「知られざる日本を旅して」(A WAYFARER IN ......)
  4. 大正15年出版:「日本」(JAPAN)

最後の「日本」のみ和訳本は出ていないと思うが、他の三冊は以下の如く日本語に和訳され出版されている。

  1. 昭和8年出版:「日本アルプスにおける登山と探検」
  2. 昭和45年出版:「極東の遊歩道」
  3. 昭和62年出版:「ウエストンの明治見聞記」(知られざる日本を旅して)※これ以外に英国でウエストンさんが発表し、日本で知られていない日本関係の文章が沢山有り、これ等を纏めて出版したものが以下の本である。
  4. 1999年出版:「ウオルター、ウエストン未刊行著作集」上、下巻、和訳:三井嘉雄

6.日本アルプス命名の由来

日本アルプスの父、近代登山の父と云われるウエストンさんは、よく日本アルプスの命名者と云われる事がある。これは間違いであり初めて日本アルプスと書いたのは英国人ウイリアム、ガウランドである。明治14年に出版された「日本旅行案内」に初めてガウランドが書き、その後も使用される様になった。

しかし本場のヨーロッパアルプスと比較し、余りにも規模が小さいのでアルプスという言葉を使用する事に抵抗があった様だ。ガウランドは日本政府の招きで、冶金学と貨幣の鋳造技術を指導にきた有能な学者で、明治11年には槍ヶ岳に外国人として初めて登っている山好きでもある。しかし「日本アルプス」と云う言葉を固有名詞として使用し、本の題名にも使い、広く一般的にしたのはやはりウエストンさんである。又北アルプスと南アルプスを分けて名付けたのもウエストンさんである。

7.おわりに

昭和15年3月27日ウオルター、ウエストン氏は78歳で亡くなられた。

あと少し生きていたら米英と戦争状態に入った日本と、英国との間に入り多いに悩まれたことであろう、それを思うと良い時期に亡くなられたものともいえる。

松方三郎さんは著書「山で会った人」

とウエストンさんと親しかった元日本山岳会会長、松方三郎さんは著書「山で会った人」の中で言っている。又同書の中でこうも云っている

ウエストンさんは日本近代登山の開拓者だ、日本の登山の歴史は古いが、近代的なスポーツとしての新しい方向ずけをした人はウエストンさんだった。ウエストンさんによりまかれた種子が、きわめて正統派的な近代登山であったことも忘れてはならない。

松方三郎さんは著書「山で会った人」

日本の登山界ははたして、ウエストンさんの期待にそうような山登りをしているのかどうか、時々考えてみる値打ちがある。」

今回ウエストンさんのことを書くにあたり、改めて戦前戦後の多くの山岳書を読み調査したが、余りに書くべき事が多いので絞って書いたつもりだが、それでも6ページにもなってしまった。心から日本人を、日本の山々を愛してくれたウエストンさんの事を少しでも皆さんに知って頂ければ幸いです。