日本の登山の歴史 No.3

もくじ

7.探検とスポーツとしての登山(近代登山)

7-1、近代登山の初期

政府お抱え外国人科学者により行われた。

明治34年ごろの富士登山スタイル(野中至著作「富士案内」より)

明治3年:後の英国公使アーネスト、サトウは軽井沢ー浅間山―乗鞍岳―上高地―八ヶ岳を走破する。

明治10年~12年:ミルトンは岩手山―月山―鳥海山―岩木山を登る。

明治11年:W,ガウランドは槍ヶ岳に登頂。後に日本アルプスの命名者となる。

明治28年:W,ウエストンは日本の中部山岳の多くを登る。

猟師の名山案内人「嘉門次」w、ウエストン 槍沢の「坊主の岩小屋」前にて(明治28年)

7-2、日本人による探検とスポーツ登山

7-2-1、近代スポーツ登山の機運が一気に広まる

以下の3冊の本により近代登山スポーツ精神が全国に広まり、近代スポーツ登山の機運が一気に広まった。

  1. 明治14年発行;アーネスト、サトウ編集「ハンドブック、ジャッパン」 英文、外国人用(日本全国の案内ガイドブックであるが、中央山岳部の越中、飛騨、甲府、信州の山を紹介。)
  2. 明治27年発行;志賀重昴「日本風景論」日本の山を賛歌しており、若者に大いに登山を勧めている。 この本を読んだ多くの若者が登山と言うものに興味をいだいた。
  3. 明治28年ロンドン発行;W,ウエストン「日本アルプスの登山と探検」英文、北アルプスを主に登山した記録を書き、 日本アルプスを世界に紹介した本である。日本人も読み参考にした。

上記3冊の本が日本の山を多くの日本人に知らしめ、日本の近代登山スタートの書であると考えられる。

マレイ社のハンドブックでは、越中、飛騨、信州、甲州の地図を掲載し日本アルプスを示しており、又、浅間、日光、甲府、等は周辺詳細地図を添付し説明している。「飛騨,越中」は項目を設け、北アルプス槍穂など13ページに渡り説明している。

  1. その他:明治23年「20万分の1」のラフな日本の地図発行。 (大正2年に「5万分の1」地図発行。)

7-2-2.日本人の記録

  1. 明治29年:小暮理太郎・・大町―針の木峠―立山―大町-乗鞍岳―御岳―木曽駒―甲斐駒―金峰山―十文字峠―太田市へ帰宅
  2. 明治31年~36年:河口彗海・・ネパールヒマラヤ越えチベットへ入り仏教の経典の勉強に行く。[西蔵旅行記、上下巻が出版されている]
  3. 明治35年:小島烏水、岡野金次郎・・槍ヶ岳登頂
  4. 明治38年:小島烏水会長で山岳会創立
  5. 明治末までには北、南アルプスの山々は登りつくされる。
  6. 明治43年:鵜殿正雄・・・穂高~槍ヶ岳初縦走

大正元年:鵜殿正雄・・奥穂高~西穂高初縦走

槍ヶ岳~穂高連峰

7-2-3.博物学の発展と登山

明治に入り近代工業化の発展のため、物理学、植物学、その他多くの工学を含んだ博物学と言うものが盛んとなり、中でも山岳に関しては鉱物、地質、植物が調査研究の対象となる。中でも高山植物の調査研究は盛んであった。明治末には早くも素晴らしい高山植物の本が発刊されている。武田久吉、牧野富太郎、三好 学、等の活躍が目立つ。特に登山家として武田久吉博士の高山植物の著作は多い。

明治39年発行 明治41年発行

上記の本は牧野富太郎、三好 学、両博士の著作で、日本で初めてカラーによる花の絵が描かれた高山植物の本である。

明治39年発行「日本高山植物図譜」よる石楠花、苔桃他

7-3.スポーツ、アルピニズムの発生

大正時代初期の五万分の一地図の発行は、山の探検時代を終了させ、雪山などの新しいより困難な山登りとして、スポーツアルピニズムと言う考え方を発展させていく

  1. 明治43年:加賀正太郎は欧州アルプス、ユングフラウ登頂。
  2. 明治44年4月12日:辻村伊助が雪の徳本峠を越え上高地に入る。(後に欧州アルプスで登山、名著「スイス日記」を書く)
  3. 明治44年:鹿子木員信はベルナーオーバーランドアルプスの山旅をする。(名著:「アルペン行」を書く)
  4. 大正4年:槇 有恒、鹿子木教授 「慶応大学山岳部創立」
  5. 大正10年:日高信六郎はモンブラン4810m登頂。
  6. 大正10年:槇 有恒はアイガー東山稜を初登攀。

当時ヨーロッパ最高の登攀として賞賛され、今日でもグリュンデルワルトでは語り継がれている。 日本の岩登り時代の幕けとなる。以上の5人の登山者は日本に帰り、登山技術の発展に貢献している。

アイガー
  1. 大正10年1月:学習院大学により厳冬期「つばくろ岳」登頂 以後昭和初期までスキーによる冬山登山が盛んに行われる。慶応、北大、学習院、早稲田、などの主要大学山岳部の活躍が主。

7-4.日本の岩登りの発展

槍ヶ岳北鎌尾根
  1. 大正11年3月30日:L、槇 有恒にて槍ヶ岳積雪期登頂。
  2. 同年8月 同日:早稲田、学習院両校山岳部が槍ヶ岳北鎌尾根を初登攀する。
  3. 大正13年6月:藤木九三が神戸で日本初のRCC設立。
  4. 大正14年8月:藤木九三が穂高の滝谷初登攀
  5. 昭和4年:各務良幸がモンブラン東南壁に初登攀
  6. 昭和5年7月14日:小島準太郎(小島烏水の御子息)が谷川岳1の倉を初登攀(二の沢)する。
  7. 昭和 5年7月17日:小川登喜男が1の倉沢奥壁第三ルンゼ初登攀する。

マチガ沢 東尾根 1の倉沢 幽の沢 堅炭尾根

「谷川岳の東面」

8.昭和初期の登山界

昭和初期は大学山岳部のクライマーの活躍が目立つ。徒歩渓流会の谷川岳の開拓は目覚しいが、穂高岳、剣岳、谷川岳など主要の岩場は大学の山岳部の活躍が目立つが、しかし穂高岳における前穂東壁、屏風岩、滝谷の困難な壁,稜、そして剣岳のチンネ、ルンゼの岩場や谷川岳の烏帽子沢奥壁、衝立岩周辺、コップ状岩壁、滝沢などの大きな岩壁登攀は戦後の昭和30年代まで待つ事となる。昭和10年を過ぎるとと中国戦線が激しさを増し、戦争の時代に入り段々山登りなど出来なくなってくる。

昭和16年12月に太平洋戦争に入った日本では、その後物資不足が著しく、山誌などは無駄な物として紙が統制されたので、全ての雑誌は中止となり統一され「山とスキー」だけが「山と渓谷社」にて発刊された。勿論登山者は山に登ることが非国民と見なされ、山登りも出来なくなっていく。昭和20年8月15日、日本の敗戦により翌年の1月まで日本は全てが止まった様になるが、昭和21年1月には「山と渓谷」が山と渓谷社より発行され、以後続々と「山小屋」「岳人」「山と高原」「新ハイ」などが発刊され、戦後の混乱期にも関わらず登山界は活動を開始する。

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