「魔の山 谷川岳」と遭難についての考察

魔の山谷川岳

「魔の山谷川岳」とは戦前から言われてはいた様だ。昭和11年の新聞記事に魔の山 谷川岳で簡易保険局員2名が雪崩に遭い遭難し、1名が死亡した事が書かれている。谷川岳の遭難統計は昭和6年から記録されているが、この年に1名が万太郎谷で疲労凍死しており記録的には初めての遭難死者となる。

その後も年に1~2名の遭難死者を出すが、昭和9年5名、昭和10年9名、昭和11年10名と遭難死者を増加させたのが、昭和11年の「魔の山谷川岳」の新聞記事に為ったものと考えられる。まだこの段階では一般登山者から「魔の山谷川岳」は認知されていないと思う。何故ならば戦前に谷川岳を、ましてや岩登りや雪山を登る人は少なかったからである。

「魔の山谷川岳」の一般的な認知

一般的に社会現象として「魔の山谷川岳」が認知されるのは、昭和32年以降に一ノ倉沢における初登攀争いが本格化し、毎年30人前後の大量遭難死者を出してからであろう。谷川岳の一ノ倉沢の出合で夕方暗く為ったり、ガスが立ち込め奥壁が黒くかすむ様になると、一ノ倉沢はまるで悪魔が黒いマントを広げて、我々を飲み込んでしまうような感覚を抱かせる。一ノ倉沢には悪魔が棲んで居ると思う瞬間である。クライマーは時々こうした恐ろしい思いをさせられる時が有るものだ。

暗く陰鬱で悪魔が棲んでいる様な一ノ倉沢の景観

昭和32年3月29日、19歳の吉尾弘と原田輝一という2人の少年クライマーが積雪期の一ノ倉沢の滝沢の初登攀をした。昭和9年冬の滝沢で日本登行会の中村太郎、宮北敦男が滝沢上部で雪崩に遭い墜落死して以来、実に23年ぶりの一ノ倉沢の積雪期のビックルートの登攀であった。

一ノ倉沢の滝沢積雪期初登攀はそれまで危険であると考え、ビックルートの登攀を控えていたクライマーに火をつけ、一ノ倉沢は夏季、冬季のビックルート開拓が一気に始まり、多くのルートが初登攀され昭和34年には最後の課題であった衝立岩正面岩壁が、雲稜会の南博人、藤芳泰により初登攀され、一ノ倉沢のビックルートは登りつくされた。しかし谷川岳は昭和33年に31名の遭難死者、昭和34年に33名の遭難死者、昭和35年にも33名の遭難死者を出してしまい、その多くが一ノ倉沢の遭難であった。
そして昭和35年9月に横浜のカタツムリ山岳会の会員が衝立岩正面岩壁の第2登を狙ったが、第二ハングで墜落したクライマーと、第一ハングでザイル確保していたクライマは二人ともで宙吊となり遭難してしまう。岩壁全体がオーバーハングしているので、遭難者は岩壁から5m以上は離れてしまい救助も出来なかった。そして遭難者の近くに行けない為に、止む無く自衛隊の銃の発砲によるザイル切断という、センセーショナルな方法により遺体の回収を行った。

この遭難では遭難してから1週間後に自衛隊の銃発砲によりザイルは切断されたが、その場で遭難救助を応援した小森康行氏の報告を読むと、小森氏は岩壁にボルトを打ち込み、自分を確保してもらい、遺体の3m程近くまでいったが如何しても引き下ろす事は困難であり、止む無く引き下がったと書かれている。カタツムリ山岳会としても何とか自分達で友の遺体を引き下ろすべく努力したが,ルートが余りにも険しく、人命尊重の上からも二重遭難を起こしてはいけないと、カタツムリ山岳会も断腸の思いで自衛隊への依頼をしたことが書かれている。1週間も経過したので連日新聞をにぎわし、映画館ではニュース映画として遺体回収の現場を放映した。映画産業全盛時代であったので、このニュース映画は多くの人々が見る事となった。この恐ろしい画面を見た多くの一般の人々は「魔の山谷川岳」を強く印象ずけたことであろう。私も18歳で社会人1年生の時にこのニュース映画を映画館で見たが、実に恐ろしい光景であった。谷川岳は昭和33年以降の10年間で255人の遭難死者を出してしまい、「魔の山谷川岳」は決定的に世の中に印象ずけられてしまう。初登攀時代が終わった後も昭和35年以降にルートの第二登、三登を目差すクライマーの遭難は後を絶たず相次いだ。滝沢で積雪期の歴史的な初登攀をした吉尾弘氏も、先年滝沢の脇にある滝沢リッジの登攀で惜しくも遭難死してしまう。

谷川岳の一ノ倉沢に私が登っている昭和40年代には、沢の岩壁には多くの遭難を悼む記念碑版が埋め込まれ、それらを見ない様に一ノ倉沢に入った。沢の奥に入ればその様なものは無くなるが、子供や友を悼む切実な気持ちは計り知れないものが有る。
しかしこうした恐ろしい遭難が多い谷川岳だからこそ、多くの登山者も魅力を感じ、登る人は後を絶たなかった。一般登山者も一ノ倉沢を登るクライマーも谷川岳を登った事は、他の山を登った事よりは自慢できたのかも知れない。若い頃の自分を考えればこの気持ちはよく理解出来る。昭和30年~40年代の土合駅の混雑は異常なものが有った。特に昭和30年代には旧清水トンネルを通っており、土合の駅もホームも地上にあり、粗末な土合駅は大変な混雑であった。私が一ノ倉沢を登った頃はすでにホームは地下トネンネルの中になっていた。谷川岳にマチガ沢、一ノ倉沢、幽ノ沢、が無かったらこれ程遭難も出ず、話題になる事は無かったであろうが、クライマーにとっては魅力的な山である。

参考資料

  1. 群馬県警の遭難統計、平成26~30年による。
  2. 警察庁生活安全局地域課:平成30年6月21日発行、「平成29年度における山岳遭難の状況」平成20~29年による。
  3. 「谷川岳物語」:1959年9月25日初版発行、著者:杉 高久
  4. 「垂直の上と下」:昭和56年10月1日初版発行、著者:小森康行
  5. 松浦 剛の体験的知識による。
  6. 日本医科大学の遭難データ統計による。
  7. 東京、緑山岳会の遭難データ統計による。

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